酉蓮社について

旧三縁山増上寺山内寺院・報恩蔵
酉蓮社志稿

會谷 佳光著

酉蓮社刊

注: 本ページは、2012年刊行の同書をhtml形式で再録したものです(奥付はこちら)。外部サイトのリンク先など若干情報を更新してあります。今後内容の増補改訂を予定しています。


昭和17年当時の酉蓮社経堂(報恩蔵)

昭和17年当時の酉蓮社経堂(報恩蔵)


発刊の辞

今回の「酉蓮社志稿」は先に発行しました「酉蓮社(旧三縁山増上寺山内寺院報恩蔵)収蔵嘉興版大蔵経目録」の続編にあたるものです。

東洋文庫勤務會谷佳光博士が酉蓮社蔵明版一切経の調査を始められてから早二年の歳月が流れました。その間、毎週のように酉蓮社に通われて経本を一頁一頁調べておられる姿には頭の下がる思いでした。そして、その調査結果を「酉蓮社報恩蔵の研究―嘉興版大蔵経調査報告―」として出版したいと思っておりましたが、悲しいかな本書の完成を見ずに母愛子が他界いたしました。

會谷博士には無理をお願いして、それまでに完成していた目録を「酉蓮社(旧三縁山増上寺山内寺院報恩蔵)収蔵嘉興版大蔵経目録」という形で出版させていただき、一周忌に母に捧げることができました。

本書は酉蓮社の創建以来の歴史についてまとめられたもので、本尊酉蓮社了誉聖冏上人の聖冏忌に合わせて出版いたしました。

さて、酉蓮社の寺史を語るとき、その依るべきは「三縁山志」にある数頁の記載でしかなく、非常にもどかしさを感じたものです。

會谷博士は本書の執筆にあたり、骨身を惜しまず様々な関連資料を収集され、酉蓮社に残された資料や増上寺蔵の古地図と古文書、また経箱や経巻の間に紛れ込んでいた文書までもつぶさに読み解き、緻密な考察・考証により江戸創建から現代に至るまでの事細かな由緒・歴史を明らかにされました。まさに絵巻物をひもとくようにその折々の酉蓮社の姿が浮かび上がります。このような本書を執筆いただきました會谷博士に衷心よりお礼を申し上げます。

この書物は酉蓮社の至宝であり、住職として誇らしく思うと同時に、酉蓮社護持発展の礎にならんことを心から願っております。

最後に、酉蓮社に縁あるすべての人々に報恩の意を込めて本書を捧げ、発刊の辞といたします。

平成二十四年九月九日 重陽の節句

酉蓮社住職 青木 照憲


はじめに

酉蓮社は東京都目黒区平町に所在する浄土宗寺院であり、かつては芝の三縁山広度院増上寺山内にあった。『大本山増上寺史』本文編は、酉蓮社について次のように概説する[1]

〔酉蓮社〕目黒区平ママ町一―四―十六

開祖は貫蓮社練誉雅山。寛延三年(一七五〇)五月雅山月行事席のとき、新谷巽の角に学徒策励のため明本の一切経を納め報恩蔵を建立し、当山開山酉誉聖聡の師、酉蓮社了誉上人の影像を本尊として安置。酉蓮社と称し開山した。明和九年(一七七二)十一月堂舍完備。このとき、典誉大僧正を開基とし、浄行念仏道場とした。このとき、香衣別院に定められる。またこのとき、『酉蓮社報恩蔵如法道場規約』が定められる。近年に目黒区に移転した。

増上寺は、もと真言宗の寺院であったが、明徳四年(一三九三)に浄土宗に改宗して増上寺と改名した。慶長三年(一五九八)、第十二世源誉存応の代に徳川家康の支援を得て現在地に大伽藍を完成し、徳川家の菩提所となった。浄土宗関東十八檀林の筆頭として、常時三千人の僧侶が修学する一方、総録所として一宗を統制した。

増上寺の大蔵経といえば、徳川家康によって寄進された高麗版(高麗再彫本)・宋版(思渓版蔵経)・元版(普寧寺版蔵経)の三大蔵経が知られている。しかしながら、これら三大蔵経は寺宝として厳格に管理され、修学僧が容易に閲覧できるものではなかった。そこで練誉雅山は、修学僧が利用できる大蔵経を備えようと考え、寛延三年に増上寺山内に報恩蔵を建立して明版大蔵経を招請して収蔵し、浄土宗第七祖了誉聖冏(一三四一~一四二〇)に因んで酉蓮社と名付けたのである。つまり増上寺山内において実際に修学僧の教育・養成に重要な役割を担ってきたのは、酉蓮社報恩蔵収蔵の明版大蔵経だったのである。

ところで、宋版大蔵経に開宝蔵・東禅寺版蔵経・開元寺版蔵経・思渓版蔵経・磧砂版蔵経等の諸版があるように、明版大蔵経にも現存するものだけで四種類の版がある。そのうち三種は官版大蔵経の洪武南蔵・永楽南蔵・永楽北蔵であり、一種は私版大蔵経の嘉興蔵である[2]。以下、これら大蔵経について概説しておく。

洪武南蔵は、洪武五年(一三七二)に洪武帝の勅を奉じて磧砂蔵(南宋至元刊)を底本として開版され、建文三年(一四〇一)冬に正蔵五百九十一函が完成した。正蔵の完成を受けて、続蔵刊行の勅命が下り、諸宗の重要典籍が続刻された[3]。その版木は、南京城南端の聚宝門外にあった天禧講寺に保管されたが、永楽六年(一四〇八)頃、放火によって甚大な被害を被った[4]。そのため洪武南蔵はほとんど流布しなかったようであり、現在伝わるのは、一九三八年に四川省崇慶県光厳禅院(上古寺)で発見された一蔵のみである[5]

永楽南蔵は、洪武南蔵の罹災後、永楽帝の勅を奉じて、南京において、焼け残った洪武南蔵の版木を補修したり、あるいはその印本を底本にして重刊する等して、これを再編して印造したものであるといわれており、永楽十七年の末までに正蔵六百三十五函が完成した[6]。永楽北蔵は、永楽十七年三月に北京遷都を果たした永楽帝の勅を奉じて、北京で新たに開版されたものであり、正統五年(一四四〇)十一月に正蔵六百三十六函が完成した[7]。永楽北蔵は、万暦七年(一五七九)に追彫が始まり、同十一年頃、続蔵四十一函が完成し[8]、永楽南蔵は、万暦三十年代半ば頃に続蔵四十一函が完成した[9]。この頃、永楽年間に開版された南北両蔵の正蔵は、経典の出入・分函の調整を経て、南蔵六百三十六函、北蔵六百三十七函に落ち着いていたため、正続合わせて南蔵が六百七十七函、北蔵が六百七十八函の構成で頒布された[10]。続蔵完成後に印造された永楽南蔵・永楽北蔵は、それぞれ続蔵と合わせて万暦南蔵・万暦北蔵とも呼ばれるが、本書では印造時期によらず「南蔵」・「北蔵」と呼ぶ。

嘉興蔵は、万暦十七年頃、達観真可・密蔵道開等の主持のもと、華北の五台清涼山紫霞谷の妙徳庵で開版された。しかし寒冷かつ峻険な土地ゆえに困難が多く、同二十一年、その開版地を江南の杭州径山の興聖万寿禅寺寂照庵に移した。開版された版木は、寂照菴で保管して印刷し[11]、これを嘉興府秀水県の楞厳寺の経房で装訂して販売した。正蔵は崇禎十五年(一六四二)頃までに完成し、続蔵は康煕五年(一六六六)、又続蔵は康煕十五年までに嘉興蔵に追加入蔵されたと言われている[12]。嘉興蔵はしばしば「明版」・「明本」と呼ばれるが、刊行が明代に始まったというにすぎず、清代に入ってからも開版・補刻・印刷が続けられていたのである。明蔵・万暦蔵・密蔵本・径山蔵・嘉興蔵・楞厳寺版等、様々な名称で呼ばれるが、本書では「嘉興蔵」と呼ぶ。

明版大蔵経は、装訂・字詰・千字文の違いによってその版種を見分けることができる。南蔵・北蔵の装訂は折帖であったのに対し、嘉興蔵は閲読の便を考えて方冊本(冊子体)を採用した。字詰は大蔵経によって相違があり、南蔵は一折六行十七字、北蔵は一折五行十七字であり、嘉興蔵は半葉十行二十字が基本である。千字文は、大蔵経の整理番号として代々利用されてきた。大蔵経は版によって経典の並び順・収録の有無や、経典の巻数等に違いがあるため、各経典に割り当てられる千字文は版によって異なる。よって経典の装訂・字詰・千字文から、比較的容易にその版種を見分けることができるのである。酉蓮社所蔵の明版大蔵経は、十行二十字の方冊本であり、一見して嘉興蔵とわかる。現存する多くの嘉興蔵と同様、酉蓮社蔵本も康煕年間(一六六二~一七二二)の刊記を持つ経典を多数含んでおり、清代に印刷されたものである。

雅山が招請した大蔵経が嘉興蔵であったことは、増上寺の修学僧をはじめとする僧侶達にとって非常に有益であった。なぜなら嘉興蔵は、寛文延宝間に黄檗宗万福寺宝蔵院で開版された黄檗版大蔵経(以下称「黄檗蔵」)の底本に用いられ、その後、黄檗蔵が江戸時代から明治時代にかけて全国各地の寺院に広まり、宗派を越えた共通テキストとなったため、増上寺の僧侶達は酉蓮社収蔵の嘉興蔵を当時の共通テキストとして用いることができたからである。

そればかりでなく、大正から昭和の初めにかけて編纂刊行された『大正新脩大蔵経』(以下称「『大正蔵』」)では、増上寺の三大蔵経とともに、酉蓮社蔵本からも数多くの経典が底本として採録された。周知のごとく、『大正蔵』は近現代の仏教界に広まり、世界的なスタンダードテキストとしての地位を確立した。近年では、日本・台湾で『大正蔵』のデジタルテキスト化が行われ、インターネット上で公開されている[13]

このように、酉蓮社蔵本は、江戸時代にあっては増上寺修学僧の教育・養成に大きく寄与し、現代にあっては世界中の仏教関係者に対して多大な恩恵を与えているのである。

以上述べたように、酉蓮社は歴史的価値を有する大蔵経を所蔵する寺院である。それにもかかわらず、これまで研究者の注目を浴びることなく、その創建以来の歴史についてもほとんど研究されたことがなかった。そこで本書では、江戸時代・明治大正期・昭和期以降の各時期における酉蓮社の歴史について関連資料を収集して考察を行った。本書が酉蓮社および増上寺の歴史の解明、及び諸方面の研究等に少しでも裨益することができれば幸甚である。

  1. 『大本山増上寺史』本文編(大本山増上寺、一九九九年十二月)二七三頁を参照。^
  2. その他に、文献に記載されるものの現物が確認されていない大蔵経として、官版大蔵経に景泰北蔵、私版大蔵経に武林蔵等があったことが知られている。長谷部幽蹊『明清仏教研究資料 文献之部』(一九八七年十一月)一二~一四、二二~二五頁を参照。なお国立国会図書館関西館の平成二十三年度アジア情報研修で筆者が担当した「仏教典籍(漢文資料)の調べ方」において、開宝蔵以来の各種刊刻大蔵経について概説したことがある。その時の配布資料は以下のページを参照。
    https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/asia/workshop_asia_workshop23^
  3. 野沢佳美『明代大蔵経史の研究』(汲古書院、一九九八年十月)「第一章 明初の洪武南蔵について」・「第五章 洪武南蔵から永楽南蔵へ」、及び「明初における「二つの南蔵」―「洪武南蔵から永楽南蔵へ」再論」(『立正大学人文科学研究所年報』第45号、二〇〇八年三月)を参照。^
  4. 明・葛寅亮『金陵梵刹志』巻第三十一「聚宝山報恩寺」を参照。^
  5. 現在は四川省図書館に帰している。『洪武南蔵』(四川省仏教協会、一九九九年二月至二〇〇二年)第二四二冊「再版『洪武南蔵』後記」を参照。^
  6. 野沢佳美『明代大蔵経史の研究』(前掲)第五章を参照。^
  7. 野沢佳美「明代北蔵考(一)―下賜状況を中心に―」(『立正大学文学部論叢』第一一七号、二〇〇三年三月)を参照。^
  8. 野沢佳美「明代北蔵考(一)―下賜状況を中心に―」(前掲)を参照。^
  9. 長谷部幽蹊『明清仏教研究資料 文献之部』(前掲)一六頁、野沢佳美『明代大蔵経史の研究』(前掲)第十章「南蔵の函・巻数の変遷と出入仏典」を参照。^
  10. 北蔵の正蔵の函数については、長谷部幽蹊『明清仏教研究資料 文献之部』(前掲)一四~一五頁、野沢佳美「明代北蔵考(一)―下賜状況を中心に―」(前掲)を参照。南蔵の正蔵の函数については、野沢佳美『明代大蔵経史の研究』(前掲)第十章「南蔵の函・巻数の変遷と出入仏典」を参照。^
  11. 万暦三十八年には径山東麓の下院化城巷接待寺に移った。^
  12. 大蔵会編『大蔵経―成立と変遷―』(百華苑、一九六四年十一月)八〇~八二頁、長谷部幽蹊『明清仏教研究資料 文献之部』(前掲)二五~三七頁等を参照。^
  13. 「大蔵経テキストデータベース」(大蔵経テキストデータベース研究会(SAT))、アドレスは左記のとおり。
    https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/index.html

    「CBETA漢文大蔵経」(中華電子仏典協会(CBETA))、アドレスは左記のとおり。
    https://cbeta.org/^


前篇 江戸時代の酉蓮社 報恩蔵の建立と嘉興蔵の収蔵を中心に

1 増上寺山内機構の概要

本篇では、江戸時代における酉蓮社の歴史について考察する。その前に当時の増上寺の山内機構、及び練誉雅山が酉蓮社創建時に就いていた月行事席の地位と役割について確認しておきたい[1]

増上寺の山内機構は、方丈方(増上寺住職)・寺家方(寺持ちの僧)・所化方(修学中の僧)に大別される。方丈方の主たる増上寺住職は方丈・貫主とも呼ばれ、檀林寺院の総裁にして、増上寺の寺家方・所化方の統領であり、本院である方丈方には方丈役所が設置され、寺家・所化の両役者・両月番が常勤し、一宗一山の諸務支配を行った。

寺家方は山内の塔頭たる坊中三十坊・御霊屋別当八院・御霊屋別当三蓮社・別院十院等から構成されていた。坊中三十坊は安養院・威徳院・雲晴院・花岳院・観智院・華養院・月界院・月窓院・源興院・源寿院・源宝院・源流院・光学院・広度院・昌泉院・常行院・常照院・浄運院・瑞華院・瑞善院・清光院・池徳院・貞松院・天光院・天陽院・徳水院・隆崇院・良雄院・良源院・林松院からなる。そのうち戒臈上座十三名を坊中月行事といい、坊中の指南役を勤め、月ごとに順次月番として方丈役所に勤仕した。また三十院中二名を寺家役者に選出し、方丈役所で坊中一切の支配等を行い、所化役者とともに一宗の諸役に当たった。御霊屋別当八院は安立院・恵眼院・最勝院・真乗院・瑞蓮院・通元院・仏心院・宝松院からなり、御霊屋の管理・法要・供養を司り、諸侯の宿坊も兼ねた。御霊屋別当三蓮社は岳蓮社・鑑蓮社・松蓮社からなり、その勤仕は御霊屋別当八院に準じた。別院十院は安蓮社・一経院・恵照律院・心光院・清光寺・清林院・福聚院・宝珠院・妙定院・酉蓮社からなり、表独礼寺院並みの取り扱いを受け、香衣別院とも呼ばれた。

一方、所化方は山内の三谷と称される地域に百数十軒に及ぶ学寮(所化寮ともいう)を有し、宿泊所兼学問所とした。三谷は南谷・北谷・山下谷からなり、さらに南谷が四谷(袋谷・南中谷・天神谷・新谷)、北谷が三谷(神明谷・三島谷・三島中谷)、山下谷が二谷(山下谷・山下西谷)に細分され、計九谷からなる。九谷にはそれぞれ筆頭責任者として谷頭を置き、自己の谷内にある学寮の所化を教化・統制し、さらに北谷・南谷・山下谷の谷頭の中からそれぞれ一名を選び、三谷の谷頭の代表として諸谷頭惣代を置いた。

増上寺山内には常時三千人の修学僧がおり、これを所化衆と呼んだ。所化衆の階級座次は、初入寺の十四番輪席から一番輪席に至り、その上は縁輪席(六十六僧)・扇間席(三十四僧)・一文字席(五十僧)と進み、一文字席五十僧のうち上座十二人を月行事席と呼ぶ。月行事に欠員が出ると、月行事十一名・所化役者二名[2]で入札のうえ一文字席三十八僧の中から月行事を選出し、方丈が任命した。月行事は山内所化衆の長として例年四度ずつ(三・五・九・十一月)下読法問を勤め、方丈の名代として出座した。また所化役者とともに、絶対的権威をもって宗内及び山内の諸事を支配し、所化衆を教化統制する最高責任者であるとともに、寺家・所化の両役者、坊中月行事の月番とともに方丈役所に月番で常勤し、一宗並びに一山の諸式諸務に従事した。山内の諸事は月行事等の合議の上に両役者が合議し、方丈の承認によって決定した。香衣檀林能化・紫衣寺の候補者は月行事から選ばれた[3]

練誉雅山が酉蓮社創建時に就いていたのは所化方の月行事席であり、嘉興蔵を入手して報恩蔵の建立を実現できたのも、所化方の最高責任者の一人という重要な地位にあったことが大きかったに違いない。

2 『三縁山志』他調査対象資料

酉蓮社に関する記載は、『三縁山志』巻第四「別開蓮社」の「酉蓮社」条(以下称「『三縁山志』「酉蓮社」条」)に詳しい。その内容は、大きく分けて、所在地・本尊(酉蓮社了誉聖冏略伝を含む)・沿革・八景・開基・別院願主・世系からなる。以下にその全文を挙げる。なお底本には東洋文庫所蔵の岩崎文庫本『三縁山志』(文政二年序刊本)を用いた。本文中「【 】」は、筆者が補ったものであり、「〈 〉」は原文の割り注である。旧字体は常用字体に直した。

○酉蓮社 【所在地】〈新谷たつみの角〉

【本尊】

御当山開祖酉誉上人の師酉蓮社了誉上人を本尊とす。

【酉蓮社了誉聖冏略伝】

上人略伝〈『別伝』・『本朝高僧伝』・『東国高僧伝』・『浄土本朝高僧伝』・『浄土列祖伝』・『浄家惣系譜』・『新選往生伝』等を抄出す〉

常陸国の産にして大守佐竹左馬頭義篤の一族なり。同国久慈郡岩瀬の城主白吉志摩守義満の長男なり〈『常福寺記』・『宗慶寺記』同之〉。

『伝通院記』に義光とあるは、満の訓を書誤れるかもと。佐竹は新羅義光の裔なり。末流誰か義光の名を付べき。『東国高僧伝』・『鎮流祖伝』に義光の裔とあるを見あやまりて伝ふるならん歟。『新撰伝』には義元とあり。是又光の字の写誤歟。又『法幢院牌銘』に白石志摩守宗義とあり。今常福寺宗慶寺の『記』によりて記す。○師誕生の地へ、永正八未年八月廿日、一寺をひらき、御城山光明寺と名く〈開祖真誉〉。元禄十三辰年十月、府君源義公より光明を改め誕生寺と名つけ、除地若干を寄附せらる。

暦応四巳年生。貞和元酉年、父義満、同国大椽小田と戦ひ、終に三月九日討死せしかは、釆邑は敵の為に奪れ、館城は他の領となりし。時五歳なれは、めのと是をかくし、同国瓜連に至り、常福寺開山了実上人の許に送り出家せしむ。其相、常人に異なり、頂骨高く聳、額に纎月を隠し、眼光、人を射る。見るもの驚歎せすといふ事なし。智弁、泉の如く、才操、電に似たり。顕密の学は伝教弘法に恥ず、禅教の旨は慈覚栄西に等し。又孔老詩歌に通明し、文筆画工に研練なれば、一切の世間法義の二ツに於て、其淵府を知るものなし。故に文殊の称を高くし、一宗の宏基を勃興せり。師〈了実〉の命によりて瓜連常福寺の二世たりしかと、佐竹氏の乱によりて負笈遁れて同国同郡の川嶋に至り、高仙寺を開く。又不軽山にかくるる事数年、然れとも小田大椽水戸長沼岩城那須等の戦ひ、相馬白川結城の軍勢、或南朝方と称し、或は北京方となり、互に戦ひ止時なく、かれを討、是を払ひ、親に負き、踈に与し、父子君臣権威につのり、自勢を争ふ時節なりしかは、身を山水の間に全ふし、心を風雲の岐に交へ、著述惟多し。『頌義』三十巻・『同見聞』八巻・『糅抄』四十八巻・『十八通』二巻・『名目図』一・『同見聞』二巻等、都て二百巻に及へり。又一宗の伝法を定め、応永の式目を立、末徒の永式を定む。其後武蔵国にうつり、小石川に隠棲す。今の宗慶寺是也。又伝通院〈無量山寿経寺と名つく〉を建。つゐに応永廿七年九月廿七日寂す。

【沿革】

此地もと三軒谷とて学寮三軒あり。寛延三午年五月、御当山四十四代門誉大僧正の代、生実大巌寺住練誉雅山和尚いまた月行事席にあられし節、学徒策励のため明本の一切経を相納られ、報恩蔵建立せられ、古来よりありし了誉上人の影像を安置し、酉蓮社と名く。其後明和九辰年迄に堂舍建立全備す。其時典誉大僧正開基と称せられ、浄業修行の香衣別院と定めらる。

【八景】

新題八景

蓮社斜月 万戸暁煙 赤水一帯 芝浦征帆
総山翠黛 縁林淡靄 菅廟梅雪 南堤残花

【開基】

別院開基

到蓮社前大僧正典誉上人清阿知瑛大和尚

【別院願主・世系】

〈別院願主〉貫蓮社練誉上人天阿大愚雅山大和尚〈大巌寺一代 宝暦七丑年五月十八日寂〉―練城〈生蓮社貴誉 天明三ノ年七月十八日〉―祐応〈誠ヽヽ実ヽ〉―運理〈專ヽヽ心ヽ 文化六ノ年十一月廿一日〉―了覚〈ヽヽ真ヽ〉

以下、【沿革】部分を要約しておく。

寛延三年五月、増上寺第四十四世の教蓮社門誉覚瑩の代、月行事席にあった貫蓮社練誉雅山が、学徒策励のため報恩蔵を建立して明本の一切経を納め、伝来の酉蓮社了誉聖冏の影像を本尊として酉蓮社と名付けた。その後、明和九年までに堂舎が建立完備されて、当時の増上寺第四十八世の到蓮社典誉智瑛を開山とし、浄業修行の香衣別院に定められた。

これまで酉蓮社について言及される際には、ここに挙げた『三縁山志』「酉蓮社」条が使われることが多かった。しかし『三縁山志』は文政二年に増上寺の修学僧摂門の手を経た編纂物であり、第一次資料とはいえず、摂門が採用しなかったり、見落としたり、当時見ることのできなかった資料が少なくなかったと推測される。実際、今回調査を進めていく中で、増上寺に伝わる日鑑や文書類の中から、『三縁山志』では知ることのできなかった酉蓮社もしくは報恩蔵に関する記録を数多く見出すことができた。

そもそも増上寺は、江戸時代において、将軍家の菩提寺、関東浄土宗寺院の本寺、関東十八檀林の筆頭、浄土宗僧侶養成の中心道場である一方、幕府の寺社奉行と密接な関係を持ち、浄土宗の諸国触頭の総録所を勤める等、多方面に活躍していた。その関係で増上寺にはかつて膨大な史料が伝わっていたが、数度の火災や、関東大震災・東京大空襲を経て、その多くを失い、経蔵と宝蔵庫に保管され、かろうじて戦災を免れた史料が伝わるのみである[4]。現在増上寺にどのような日鑑や文書類が伝わっているかについては、『増上寺史料集』附巻「増上寺文化財目録」によって調べることができる[5]

増上寺に伝わる史料の根幹をなすのは各種日鑑であり、なかでも質量ともに豊富でかつ重要なものが、増上寺の本坊内で記録された『役所日鑑』・『月番日鑑』・『帳場日鑑』である。

『役所日鑑』は、浄土宗において江戸の触頭を勤めた増上寺の役者衆である所化役者・寺家役者が担当した。触頭は幕府の寺社奉行と密接な関係を持ち、寺社奉行から下達される命令を配下の寺院に伝達し、かつ配下の寺院から寺社奉行に提出する各種書類を申達する機関であった。そのため『役所日鑑』には浄土宗の総録所として全国の浄土宗寺院を管轄する内容の記録が多い[6]。安永三年から慶応四年までの日鑑二百十二冊が増上寺に伝わるが、うち安永六年をはじめ計二十二年分を欠き、伝存する年のものも数ヶ月分を欠くものが少なくない。宇高良哲氏により次の部分が翻刻されている。

  1. 安永三年正月~三月
  2. 安永四年正月~三月
  3. 安永四年七月~閏十二月
  4. 安永五年正月~六月
  5. 安永五年七月~十二月
  6. 安永七年正月~六月
  7. 安永七年七月~十二月
  8. 天明三年十二月~四年二月
  9. 天明四年三月~六月
  10. 天明五年正月~六月
  11. 天明五年七月~十二月
  12. 天明六年正月~六月[7]
  13. 天明六年七月~十二月
  14. 天明七年正月~三月
  15. 天明七年四月~六月
  16. 天明七年七月~九月
  17. 天明七年十月~十二月
  18. 天明八年正月~六月
  19. 天明八年七月~十二月
  20. 寛政二年正月~三月
  21. 寛政二年四月~六月
  22. 寛政二年七月~九月
  23. 寛政二年十月~十二月[8]

『月番日鑑』は、坊中三十坊の戒臈上座十三名からなる坊中月行事が月番で担当した。坊中月行事は坊中の指南役の地位にあり、毎月交代で方丈役所に詰め、諸日鑑の記録・諸請願・訴訟・諸儀式・諸法要・諸規則等に関する業務に従事した。そのため『月番日鑑』には山内の本坊・塔頭・別当に関する記録が多く、江戸時代における増上寺山内の歴史等を研究する上で非常に重要な日鑑である[9]。元禄十二年から慶応四年までの日鑑百十七冊が増上寺に伝わるが、うち元禄十四年をはじめ計二十三年分を欠き、伝存する年のものも数ヶ月分を欠くものが若干ある。宇高良哲氏により次の部分が翻刻されている。

  1. 元禄十二年正月~十三年十二月
  2. 宝永三年十一月~正徳二年十二月
  3. 正徳五年四月~享保五年十二月
  4. 享保六年正月~十年十二月[10] 
    (続)享保十一年正月~十二月
  5. 享保十二年正月~十七年十二月
  6. 享保十八年正月~元文元年十二月(撮影不能のため未掲載)
  7. 元文六年正月~寛保元年三月(撮影不能のため未掲載)
  8. 寛保四年正月~延享三年十二月
  9. 延享四年正月~十二月[11]

『帳場日鑑』は、方丈役所とは別に、増上寺の本坊内に置かれた方丈内役で記されたものである。方丈内役には方丈の法類・随身僧(所化)が役僧として勤仕し、方丈内の諸務や住職の世話等の任務に当たった。そのため『帳場日鑑』には住職身辺の動向や本堂内の諸行事に関する記録が多い[12]。元禄六年九月から安政元年までの日鑑百七十六冊が増上寺に伝わるが、うち元禄十三年をはじめ計六十三年分を欠き、伝存する年のものも数ヶ月分を欠くものが少なくない。宇高良哲氏により次の部分が翻刻されている。

  1. 元禄六年九月~十二年四月
  2. 正徳六年五月~享保八年十一月
  3. 享保九年正月~十三年正月
  4. 享保十三年二月~十六年八月
  5. 享保十九年正月~二十一年六月
  6. 寛延三年五月~八月、四年正月~閏六月
  7. 宝暦二年七月~三年八月
  8. 宝暦三年八月~四年七月
  9. 宝暦四年七月~五年十一月
  10. 天明五年正月~十二月[13]
  11. 天明六年正月~十二月
  12. 天明七年正月~十二月
  13. 天明八年正月~六月
  14. 天明八年七月~九月
  15. 天明八年十月~十一月
  16. 寛政元年正月~十二月
  17. 寛政二年正月~六月
  18. 寛政二年七月~九月[14] 

以上の各種日鑑のうち酉蓮社に関する記録がしばしば見受けられるのは、『月番日鑑』・『帳場日鑑』である。本書では、宇高良哲氏によって翻刻された各種日鑑の他、未翻刻の延享五年正月~十二月[15]、寛延二年正月~寛延三年十二月の『月番日鑑』各一冊を調査した。

増上寺には、日鑑以外にも様々な古文書・古記録・古地図等が伝わっており、その一部が『増上寺史料集』全九巻として翻刻されている[16]。そのうち酉蓮社と関連する記録は、第一巻古文書・第三巻山門通規・第四巻規約類聚・第九巻古記録の四巻に見出すことができる。

増上寺の日鑑は浄土宗関東十八檀林のひとつ浄国寺にも伝わっており、『岩槻市史』近世史料編2「浄国寺日鑑(下)」に「増上寺等日鑑」の名で翻刻されている[17]。「等」とあるのは、八冊のうち第二・三冊が小金東漸寺の日鑑だからである。この二冊を除く各冊の収録期間は、それぞれ下記の通りである。

  • 増上寺等日鑑一 享保元年六月~七月
  • 増上寺等日鑑四 享保十八年十月~十二月
  • 増上寺等日鑑五 寛保四年一月~九月
  • 増上寺等日鑑六 延享三年三月~延享四年一月
  • 増上寺等日鑑七 延享五年一月~寛延元年十二月 *延享五年は七月十二日に寛延に改元。
  • 増上寺等日鑑八 寛延三年九月~四年四月

このうち享保十八年十月から寛延四年四月までの五冊の日鑑には、増上寺山内の諸事や来訪者、各寺院への訪問といった日常的な事柄が記録されており[18]、文中、酉蓮社の願主雅山の名が頻出し、酉蓮社創建当時の記録も見出すことができる。『岩槻市史』近世史料編2「浄国寺日鑑(下)」の解説では、この五冊の日鑑がどの部門で記録されたものか述べていないので、まずこの点について考えてみたい。

第四冊は、文中に方丈(増上寺住職)の行動や来客に関する記事、「白木書院」・「寮坊主内役」・「帳場」といった方丈に関する語が頻出し、かつ享保十八年十二月十八日条に「委曲は役所帳場日鑑之通」とあることから、『月番日鑑』と見られる。増上寺の『月番日鑑』は坊中月行事の手になるものがほとんどであり、所化月行事の記録としては「年中行事之覚」と題する四冊の日鑑が伝わるのみである[19]。本冊には所化寮への指示や所化寮からの諸願に関する記録が多いことから、所化月行事による『月番日鑑』のように思われる。もしそうであれば非常に貴重な資料といえよう。

第五~八冊は文中に「当谷」(五・寛保四年正月元旦)・「月番ゟ使僧を以回文来ル」(六・延享三年三月廿三日)・「当谷」(七・延享五年正月元日)・「御役所ゟ南四谷頭并次座一人ツゝ同道ニて参上候様申ル」(七・延享五年四月十一日)・「愚寮江云々」・「月番ゟ回文来ル」(以上、八・寛延三年九月廿六日)といった文章が見えることから、寮持ちであり、かつ月番から布達が回文される諸谷頭惣代の日鑑と見られる。

以下、これらの資料を適宜引用しつつ、酉蓮社の創建・嘉興蔵の収蔵を中心に、江戸時代における酉蓮社の歴史について、なるべく時系列に沿って考察してみたい。

3 所在地

酉蓮社の所在地について、『三縁山志』「酉蓮社」条の題下に「新谷たつみの角」とあり、文中に「此地もと三軒谷とて学寮三軒あり。」とある。

『三縁山志』巻第十一「九谷」条の「文政二卯年四月南四谷寮主列名」図(図版【1】)によると、大門(表門)より三門に通じる三門通りの南側に並行して四本の通りが走り、それぞれの通りに「袋谷」・「南中谷」・「天神谷」・「新谷」と記されている。新谷は、その一番南側の通りの両側に建ち並ぶ学寮街のことであり、延宝年間に開かれた。新谷よりさらに南側に随善院と並んで酉蓮社の名が見え、その敷地の巽の方角、つまり南東の角に「報恩蔵」の名も見える。酉蓮社の位置は、増上寺の山内全体から見ても、南東の角地に当たる。

「三軒谷」の名は、酉蓮社が建つ前に、学寮が三軒あったことに因んで付けられたものである。『三縁山志』「篇目」の巻第十二「境内地理」に「旧趾」として「知恩院御門跡御殿趾、方丈旧趾、護念堂、廻廊、山下谷、三軒谷、飯倉宮、六反畑、三蓮社、瑞蓮院、恵照院、真乗院、通元院、心光院、福聚院、一経院、清林院、在心室、称名院。」と見えるが、巻第十一「境内地理」の該当箇所に「三軒谷」に関する記述はない。増上寺の『帳場日鑑』の享保十三年十月二十六日条に「三軒谷沢全寮ヨリ出火、隣聖瑞寮類焼、其外無別条。」とあり、『月番日鑑』の同日条に「四ツ半時分、三軒谷沢全寮ヨリ出火、聖瑞寮類焼。」とあり、三軒谷で発生した火災の記録が残っている[20]。また『月番日鑑』の享保十七年閏五月二十九日条に「山内新谷裏三軒町堀狭候間、大雨ノ節、土手通尤山内水除ニ堀広メ候作事入目…。」とあり、新谷裏の三軒町の堀の拡張工事にかかる普請経費の記録があり、新谷の裏に三軒町(谷)があったことを確認できる[21]。この「堀」は酉蓮社の南側を東西に流れる赤羽川(現在の古川)を指すと考えられる。

『三縁山志』「九谷」条の「南四谷寮主列名」図で確認できる酉蓮社の敷地は、新谷学寮の存広寮・静山寮・実隆寮を合わせたのと同程度であり、その地がもと学寮三軒を有した「三軒谷」であったことを傍証する。新谷は延宝年間に開かれた町であり、その南側は、『三縁山志』巻第一「増上寺図」の延宝元年に描かれた境内図に基づく第三図(図版【2】)と、貞享三年に描かれた境内図に基づく第四図(図版【3】)ではともに空き地であり、「三軒谷」の名は確認できない。よって三軒谷は貞享三年以降に開かれた町であったと推測される。

天保十三年に作成された『三縁山絵図』(増上寺蔵)によれば、増上寺の門前に沿って北から南に桜川が流れ、南東の角、将監橋のあたりで赤羽川と合流している。その合流地点の角地に「報ママ蔵」の名が見え、その脇に「酉蓮社/了誉上人安置」とあり、その赤羽川沿いのやや西の場所に「○酉蓮社」とある[22]

『三縁山志』の報恩蔵が増上寺境内の南東の角地に建てられ、しかも裏手に赤羽川、右手に桜川が流れていたのは、火災による類焼を少しでも防ごうとの配慮からであろう。また新谷を含む南四谷は、学頭寮・蔵司寮[23]がある等、山内でも中心をなす学寮街であり、学徒策励という報恩蔵建立の主旨に鑑みても絶好の立地であったと言えよう。

4 別院願主練誉雅山

酉蓮社の願主雅山については、俗名・出生年・出身地とも記録がない。『三縁山志』「酉蓮社」条に見える「貫蓮社練誉上人天阿大愚雅山大和尚」のうち、「貫蓮社」は蓮社号、「練誉」は誉号、「天阿」は阿号(阿弥陀仏号)、「大愚」は号もしくは字、「雅山」は法諱(僧名)である。その経歴については、酉蓮社創建当時、月行事席に就いており、後に大巌寺住職となったことが『三縁山志』「酉蓮社」条によって知られる以外、これまでほとんど明らかになっていなかった。以下に、増上寺の各種日鑑等の資料を使って、雅山の経歴に迫ってみたい。

雅山に関する最も早い記録は、一文字席在席当時のものである。すなわち『浄国寺日鑑』下冊「増上寺等日鑑四」の享保十八年十一月廿四日条に、

瑞潭和尚・潭龍・雅山再伝之儀故為御祝儀金百疋ツゝ於奥書院被下候。

とある。「再伝」は、一文字席の勤めの一つである。大島泰信『浄土宗史』(『浄土宗全書』巻二十所収)に「月行事を除ける一文字席三十八僧は又指南席と称す。是れ論講とて法問論議の際、法則の捌方を大衆に講釈し、また毎年十一月五重伝法並びに宗戒相承の節方丈伝授の旨を新授者に復述再伝するが故なり。」とあるように、一文字席のうち月行事を除く三十八僧を指南席と称し、毎年十一月に五重伝法・宗戒相承の際、方丈伝授の主旨を新来初学の所化に復述再伝した。享保十八年十一月廿四日条の記事は、瑞潭[24]・潭龍・雅山の三名に再伝の祝儀として金百疋ずつを奥書院で与えたことを記録したものであり、これによって当時雅山が一文字席に在席していたことがわかる。

『浄国寺日鑑』下冊「増上寺等日鑑」には、雅山が一文字席の勤めの一つである講釈や法問の捌を行った記録が数回見える[25]。すなわち「増上寺等日鑑六」の延享三年七月廿六日条に「四ツ時雅山和尚指要鈔開講、相次て四ツ半時随天和尚五経章開講也」、十一月十日条に「第二則聞経称仏出者捌霊妙和尚、相次て円秦・雅山有之」、「増上寺等日鑑七」の寛延元年七月廿日条に「雅山和尚大経読講四ツ時」、九月廿八日条に「雅山和尚第二則維摩不思議竪者捌参聴、二番快全、三番実元和尚捌」とある。

雅山の月行事席就任については、増上寺所蔵の『(月番)日鑑』第九巻(寛延二年~三年・未翻刻)の寛延二年十月十一日条に「雅山和尚月入、長雅和尚一文字入被仰付、追々祝儀御申入候様ニ回文出ス。」とあり、翌三年五月十四日条に「雅山和尚下読終則ニ而候間、御預□御出可被成旨、回文出之。」とあり、雅山が月行事の勤めの一つである下読の法問主を勤めた記録がある。

雅山自身に著作があったかどうかについては、現物の伝存もなければ文献上の記録も見出し得ない。唯一雅山の残した文章として伝わるのは、唐・法聡『釈観無量寿仏経記』の巻首に収載される「刻釈観無量寿経記序」のみである。『釈観無量寿仏経記』は『靖国紀念大日本続蔵経』(以下「卍続蔵」)第壹輯第三十二套・支那撰述・大小乗釈経部、及び『浄土宗全書』第五巻に収録され、その底本は大谷大学や東北大学(狩野文庫)に収蔵される享保二十年江戸山城屋茂左衛門刊本と同版と推測される。以下に大谷大学蔵本により、序の全文を挙げる[26]

刻釈観無量寿経記序

夫楽国之業者、衆聖所讃、群賢所宗、以故文殊弥勒願生、天親竜樹誓往、賢聖尚然、况顓蒙乎。当劉宋之際、畺良耶舎三蔵再訳斯経、而后諸家彬彬然駕説矣。惟我終南大師、儼然楷成古今、為一家学固母論。其它金口而木舌者、孰与智者禅師哉。其説曰、此経心観為宗、実相為体。四明曰、託境観仏、仏相乃彰、全心是仏、全仏是心、終日観心、終日観仏。是言也善則善矣。雖然如弃適時之巧、我弗取也。間者人或称即心念仏、何用它仏為繄為之難言之得無訒乎。夫挾泰山以超北海之類耳。又人或謂弘願称名也者、権仮方便焉耳、不足頼也。甚哉其説也、暴戻恣睢、謗讟聖言、以是為非、以非為是、逞其詭辞、黜嫚衆兆、是可忍也、孰不可忍也。唐法聡師肇造天台観経疏記、其文簡而理明、其辞約而事備、而間襲我終南之説矣。最後宝雲四明相継蔚如也、而聡師之記、蚤已記湮滅殊方、以故使宝雲四明不知天地間有斯文在。昔者寺門珍公、乗桴浮海、得斯記開元寺以帰、猶且蔵之名山、紬之石室、寥寥乎不出于人間、蓋亦久矣。予探金簡於名山、獲此石室之書、今玆乙卯、乃将上梓以示大方。夫斯記也、不惟壎箎智者之説、亦将使游我終南山之者生之羽翼乎。是以良忠師嘗記四帖疏、〓〓以斯記而釈彼疏。然則今為終南之学者、胡可弃乎、胡可弃乎。伏冀弁析難易、觝排詭辞、俾夫控侗顓蒙、斁此棘林、游彼瓊樹、豈不厚幸哉。於是乎序。

享保二十龍集乙卯十一月

武陽縁山南溪沙門白蘋雅山撰
「白/蘋」(陽刻)、「釈印/雅山」(陰刻)

まず序末の一文「享保二十龍集乙卯十一月 武陽縁山南溪沙門白蘋雅山撰」について見てみたい。

「龍集」は、酉蓮社の嘉興蔵を納める経箱にも箱書きされているが、この「龍」は「歳星(木星)」を指し、「集」は「次(やど)る」の意であり、「歳次乙卯」・「歳在乙卯」等というのと同じく、十干十二支で表す歳次のことである。「武陽」は武蔵国、「縁山」は三縁山増上寺のことである。「南渓」は増上寺の三谷のうち南谷(袋谷・南中谷・天神谷・新谷)のことである。「白蘋」は、白い花が咲く浮き草の名であるが、ここでは「雅山」の号か字であろう。

『釈観無量寿仏経記』の巻末には「享保二十龍集〈乙/卯〉十一月吉旦/東武 芝神明宮前書林/山城屋茂左衛門刊行」の刊記があり、本書が享保二十年の冬に増上寺のお膝元ともいうべき芝神明宮(現在の芝大神宮)の前にあった書林で刊行されたことがわかる。

以上の状況から、この序文の筆者「雅山」は酉蓮社の願主練誉雅山のことであると考えて間違いない。増上寺所化僧の修学課程は名目部・頌義部・選択部・小玄義部・大玄義部・文句部・礼讃部・論部・無部の九部からなり、このうち頌義部以上の者は学寮を持つことができた。雅山は先述のように享保十八年には一文字席に入っていたから、この序を執筆した頃、南谷に学寮を持っていたと見てよい。なお雅山が「白蘋」を名乗る例は他に見ない。

この序によれば、『釈観無量寿仏経記』は円珍(八一四~八九一)が中国から将来し、久しく世に出なかったテキストを、雅山が見つけ出して上梓したものであるという。大谷大学蔵本の巻末には唐の大中十二年(八五八)に円珍が中国で本書を鈔写して日本に将来した経緯を記した奥書がある。円珍将来の『釈観無量寿仏経記』は、三井寺法明院(大津市)蔵の承保四年(一〇七七)写本と、康平六年(一〇六三)写本にもとづく叡山文庫(大津市)天海蔵蔵の治承三年(一一七九)写本が伝わるが、この両本に見られる奥書は大谷大学蔵の享保二十年刊本に収録されていない[27]。享保二十年刊本が円珍将来本そのものを底本として刊行したのか、それとも単にこれらの奥書を載せなかっただけであるのかはわからないが、これらと同系統のテキストにもとづくものであることは確かである。

享保二十年刊本の特徴として、本文の上欄外に枠付きの頭注形式で校勘記が付され、しばしば『伝通記』(良忠『観無量寿経四帖疏伝通記』)等を引用する点が挙げられる。この校勘記は、本書の刊行に当たり、雅山が『伝通記』等を参考に加えたものであろう。

『釈観無量寿仏経記』は、卍続蔵がこの享保刊本を底本に収録するまで、大蔵経未収の経典であった。約三千人とも言われる増上寺修学僧の中から雅山が頭角を現した一因は、本書の発見・刊行にも見て取れる炯眼、及び功績にあったことは間違いない。

5 嘉興蔵の奉納と報恩蔵の命名

嘉興蔵が増上寺に奉納された時期については、現在酉蓮社蔵本を納める木箱によって知ることができる。この木箱の側板には「寛延二龍集己巳初冬」・「縁山報恩蔵経函」と墨書されている。つまり寛延二年初冬(陰暦十月)には嘉興蔵が増上寺に奉納され、「報恩蔵」の名称も決まっていたのである。

嘉興蔵を収蔵する経蔵に報恩蔵と名付けた由来は、文献に記録がない。しかしその名称が日本浄土宗の開祖法然上人が修行の際に閲覧した黒谷青龍寺の報恩蔵(比叡山西塔北谷)に由来するものであることは疑いなかろう。

浄土宗の寺院ではしばしば大蔵経を納める経蔵を報恩蔵と命名していたらしく、同様の事例としては但馬国豊岡(兵庫県豊岡市)の来迎寺が挙げられる。謙蓮社遜誉誡誠の伝記である『専念仏定和尚行業記』巻上(『浄土宗全書』巻十八所収)に次のようにある。

同(明和)四年丁亥春、師範戒誉和尚、豊岡城主京極甲斐侯請に応じて同所瑞泰寺に転住せらる。このゆゑに師をして来迎寺の補処たらしめんことを檀越にはかり、惣本山に聞す。師もとより烟霞をしのぎ、百城をめぐりて恵解を倍増するの素志にたがふといへども、師命辞するに所なく、遂に同年五月九日、洛にのぼり、華頂山主の命を奉して師跡を補す。開山より二十二世なり。これよりさき、閲蔵の大願を発し、寺務の外、寝食を廃して孜孜として怠らず。また此寺に全蔵を安置し、正法久住の基本とせんことをはかり、住職の後、あまねく縁をつのられしかば、ほどなく報恩蔵〈五間に三間なり〉を経営す。このゆゑに黄檗山の印本を請じて、安置供養せらる。明和六年己丑、師年三十七、大蔵全閲の功終る。

これは、明和四年に遜誉僊阿が来迎寺に経蔵を建立し、黄檗蔵を招請した時のことを記したものである[28]。命名の由来はやはり黒谷の報恩蔵にあると考えてよかろう。

6 報恩蔵の建立

報恩蔵の上棟に関する記載は、『三縁山志』巻十「列祖高徳」の増上寺第四十四世教蓮社大僧正門誉覚瑩の伝に見える。

寛延三午年二月十六日、出府の奉書を賜はり、三月朔日、当山に貫職として大僧正に任ぜらる。四月朔日、住務叙任の謝として登営あり。是より一宗の興廃をこころとして学業をはげまさしめ、報恩蔵を新建の絵図入蔵し、了誉上人の像を安置せられ、参詣ありしかば山徒みな是に准拜参堂す。其後新谷の空地へ報恩蔵を寄附せらる〈慈明沙弥三蔵修補あり〉。

とあり、寛延三年四月一日以降の門誉覚瑩の事跡として、浄土宗の興隆のため学業の奨励に心を砕き、報恩蔵を建立し、後に新谷の空き地に寄付したと記録されている。そもそも増上寺の山内機構の制度上、一所化僧である雅山の独断で山内の敷地に経蔵を建立することは不可能であろう。報恩蔵の建立に当たっては、まず雅山が請願書を方丈役所に提出し、大僧正の承認を得てから、大僧正の名のもと報恩蔵が建立されたはずである。雅山が酉蓮社の開基・開山ではなく、願主として『三縁山志』「酉蓮社」条に記され、門誉覚瑩の伝に覚瑩が報恩蔵を建立して新谷の空き地に寄付したと記されるのはそのためである。

また、この伝によれば、慈明なる沙弥僧(十戒を護持する僧、見習僧)によって報恩蔵もしくは嘉興蔵の補修が行われている。その時期は『三縁山志』が完成した文政二年以前のことにちがいないが、詳細は不明である。現存する酉蓮社蔵本には補修跡がしばしば見られる。その中には慈明によって補修されたものも含まれていると見てよかろう。

報恩蔵の上棟については、増上寺の『帳場日鑑』の寛延三年五月廿一日条から廿三日条にかけて記録が残っている[29]

廿一日 雅山和尚ヨリ報恩蔵上棟、今日ニ付赤飯壱重来。

廿二日 雅山和尚ヨリ使僧ニテ、酒壱徳リ到来ノ事。

廿三日 雅山師ヘ報恩蔵上棟祝儀ニ五匁持参之事。

報恩蔵の上棟につき、二十一日に赤飯一重が、二十二日に酒一徳利が、雅山から方丈内役(『帳場日鑑』の記録者)に振る舞われ、二十三日には方丈内役から祝儀として銀五匁が雅山に送られた。これらの記録により、報恩蔵の上棟が寛延三年五月二十一日であったことがわかる。

現存する増上寺の『帳場日鑑』は、寛延三年八月十九日の記事を最後に、寛延四年正月元旦の記事へと飛ぶが、寛延三年九月以降の酉蓮社に関する記録は、『浄国寺日鑑』下冊「増上寺等日鑑八」と増上寺所蔵の『(月番)日鑑』第九巻(寛延二年~三年・未翻刻)によって補うことができる。まず『浄国寺日鑑』下冊「増上寺等日鑑八」の寛延三年九月十六日条に、

雅山和尚江暮合参ル、霊学・貞鏡・実元和尚会ス、酉蓮社之額出来ス。

とあり、報恩蔵上棟の約四ヶ月後、雅山のもとに月行事の霊学・貞鏡・実元等が集まり、酉蓮社の寺額の完成を祝している。継いで九月二十七日には報恩蔵に大僧正門誉覚瑩が入り、落慶法要と見られる儀式を執り行っている。すなわち前日の廿六日条に、

月番ゟ回文、明廿七日 大僧正報恩蔵江被遊御入候、朝飯後ゟ為御待請雅山和尚江集会可被成候、右相済本堂江参り可申候、銀一両包上封被成候て今日中愚寮江可被遣候と也、即銀一両霊学和尚江持せ遣候。

とあり、翌日のスケジュールと祝儀に関する回文が月番から伝えられた。儀式当日の廿七日条には、

今日 大僧正本堂江御入り、夫ゟ報恩蔵江御入り付仲間中待請報恩蔵内左右列座、大僧正御入り四誓偈・念仏一会畢て閲蔵亭江御入り仲間中拝十念、次ニ施主家男女拝十念、大僧正雅山和尚寮江も御入、右畢て本堂江仲間中江参り候如例。

報恩蔵江大衆ゟ金五百疋備之候所、三十坊中ゟ三百疋備之候付、大衆方余り軽少ニ候とて霊妙和尚料簡ニて銀三枚ニ改被備之、大僧正御備物白銀一枚也。仲間中銀一両ツゝ備之、昨日月番迄持せ遣候。

とある。この日、「仲間中」つまり所化月行事が左右に列座する中、大僧正が報恩蔵に入り、四誓偈・念仏一会を行い、さらに閲蔵亭(三大蔵経を納めた経蔵の隣)に移り、所化月行事、施主家の男女の順で参拝して十念を唱え、大僧正が雅山寮を訪れた。さらに報恩蔵への進物として、「大衆」つまり所化方の修学僧達から金五百疋が備えられたが、寺家方三十坊から備えられた金三百疋に比べ少なすぎたため、一文字席二﨟の霊妙和尚の意向で銀三枚に改められ、大僧正からは白銀一枚が備えられた。その前日には所化月行事が祝儀として銀一両ずつを月番に預け、報恩蔵に備えている[30]

この時の記録は、『(月番)日鑑』第九巻(寛延二年~三年・未翻刻)によっても坊中月行事の視点から記録されている。まず九月二十六日条に、

天陽院ゟ御使僧響忍、明日報恩堂供養ニ付、大僧正御出駕被成候。就夫右之堂江仲間為惣代、目録金三百疋下札ニ三拾坊ト相認、明朔五ツ時比持参可致之段被仰越候ニ付、各カ々目録木村包臺伴頭江御覧ニ入相備候事。

とあり、坊中三十坊の伴頭天陽院から響忍が使僧として遣わされ、明日報恩ママの供養のため大僧正が出駕されるので、就いては坊中月行事は坊中の惣代として目録金三百疋の下げ札に三十坊と記し、明朝五つ時(午前八時)頃、報恩堂に持参するよう命じられた。そこで、目録を木村包[31]にて伴頭の天陽院にご覧に入れ、報恩蔵に備えることとしたと記録されている。翌二十七日条に「今日報恩蔵就供養金三百疋相備候。為知如此御座候以上。右即刻回文出ス。」とあるように、予定通り報恩蔵の供養のため金三百疋が備えられ、その旨直ちに回文を出した。その翌日には、

雅山和尚御出、昨日者報恩蔵供養ニ付、御仲間中ゟ目録之通御備忝仕合、早速以参御礼申度候得共取込候得者、先方丈江上リ所々ゟ之御備物之儀披露申候而右備物之儀者未別当ト申茂無御座、年来拙僧存寄候処、奉資縁之者施主ニ而右之通出来仕候得共、右之分ニ而茂相済不申、勿論後之條(「修」の誤り)復料も施主存寄も御座候而寄附可仕候了簡ニ御座候。就夫弥右之段相調候ハヽ、何卒々々御輪番之御世話ニも預リ度存寄リニ御座候得共、是又承候ニ□外□被成様子ニ承リ候得共、予御聞ニ入置申度之由、御帰リ。

とあるように、報恩蔵の願主雅山が坊中月行事の月番雲晴院のもとを訪れ、坊中三十坊からの金三百疋の供え物に対する礼を述べ、さらに寺家方輪番へ報恩蔵の運営・修復に関する支援を要望している。

7 本尊了誉聖冏像の奉納

『浄国寺日鑑』下冊「増上寺等日鑑八」の寛延三年十月五日条に次のような記録がある。

月番方丈江参上被申候、席入延引夥敷有之候段不届ニ思召遂吟味候様被仰出候、且報恩蔵書籍奉納之事、且経本境外不出之訳、毎月廿六日入相鐘次第、有信之者報恩蔵江参り略頌読誦候様可教示旨被仰出候。

この日、月番の貞鏡和尚が大方丈に参上したところ、大僧正門誉覚瑩が、(1)「席入」(縁輪席に入ること)を引き延ばす不届き者が多いので吟味すること、(2)報恩蔵に書籍を奉納すること、(3)報恩蔵の経本を境外不出とする理由と、毎月二十六日の夕方、信者は報恩蔵に参詣して「略頌」を読誦するように教示すべきこと、以上の三点について命を出した。このうち酉蓮社と関連のあるのは(2)と(3)である。

(2)の報恩蔵への書籍の奉納は、一見すると嘉興蔵の奉納に関する記録のように思えるが、後述するように、おそらく了誉上人像の奉納に伴い、聖冏ゆかりの書籍を報恩蔵に納める予定であることを述べたものであろう。(3)は報恩蔵の経本管理と参拝に関するきまりを述べたものである。境外不出については、明和九年十一月に定められた『酉蓮社報恩蔵如法道場規約』第三条(後述)に明記されているが、この門誉覚瑩の命に由来するものであったことがわかる。「略頌読誦」とは、了誉聖冏の著作『浄土二蔵二教略頌』を読誦することを指すと考えてよかろう。

酉蓮社の本尊について、『三縁山志』「酉蓮社」条に「御当山開祖酉誉上人の師酉蓮社了誉上人を本尊とす。」、「古来よりありし了誉上人の影像を安置し、酉蓮社と名く。」とあり、酉蓮社了誉上人の「影像」(絵画や彫刻に表した神仏や人の像)であったと伝えられている。

了誉上人(一三四一~一四二〇)は、法諱を聖冏といい、酉蓮社と号した。当時の浄土宗は「寓宗」・「附庸宗」等と呼ばれ、独立した宗として他宗に認められていなかったが、聖冏は他宗の学匠に学び、新しい浄土宗学の樹立・体系化に尽力し、浄土宗の地位を向上させた。浄土宗(鎮西派)第七祖[32]。『三縁山志』「酉蓮社」条は、『別伝』・『本朝高僧伝』・『東国高僧伝』・『浄土本朝高僧伝』・『浄土列祖伝』・『浄家惣系譜』・『新選往生伝』等の諸資料にもとづいて了誉聖冏の略伝を記す。以下にその概要を記しておく。

了誉聖冏、常陸国(茨城)の大守佐竹義篤の一族、久慈郡岩瀬の城主白吉義満の長男として生まれる。貞和元年(一三四五)、五歳のとき父義満が討死にし、同国瓜連常福寺の開山盛蓮社成阿了実のもと出家した。「頂骨高く聳え、額に纎月を隠し、眼光、人を射る」という常人と異なる容貌を持ち、智慧分別は沸くがごとく、詩文の才は鮮烈で、顕密は最澄・空海に劣らず、禅教は円仁・栄西に匹敵し、孔老の思想や詩歌に通暁し、書画に研鑽し、世俗・仏法双方に対する智慧のほどは計り知れず、文殊の呼び声高く、一宗の興隆に貢献した。了実の命により常福寺第二世となり、のち佐竹氏の乱を避けて常陸国川嶋に高仙寺を開いた。以後、戦乱相次ぐ中、二百巻に及ぶ著述を残し、浄土宗の五重相伝の伝法制度を定めた[33]。その後、武蔵国小石川に隠棲し(後の宗慶寺)、さらに伝通院(無量山寿経寺)を建立した。

聖冏の遷化後九十年を経て、永正八年(一五一一)に誕生の地である常陸国久慈郡岩瀬に御城山光明寺が建立された。光明寺は、寛文二年に常福寺第十八世源蓮社真誉相閑を開山とし[34]、元禄十三年に徳川光圀によって誕生寺と改名された。

さて、酉蓮社の本尊として了誉聖冏像を選んだのは、『三縁山志』巻十「列祖高徳」の門誉覚瑩伝の報恩蔵建立について述べた箇所に「了誉上人の像を安置せられ、参詣ありしかば山徒みな是に准拜参堂す。」とあるように、大僧正門誉覚瑩の意向によるものであった。その理由は、『三縁山志』「酉蓮社」条に「御当山開祖酉誉上人の師」とあるように、了誉聖冏が増上寺の開祖大蓮社酉誉聖聡(一三六六~一四四〇)の師であったからである[35]

了誉上人像が報恩蔵に奉納されたのは、寛延三年十月二十日である。『浄国寺日鑑』下冊「増上寺等日鑑八」の寛延三年十月廿日条に、

五ツ時方丈江出ル、集会之間列座役者中出対、次ニ白木江出ル、二之間前ニ学頭・二臘、次ニ霊学・実元・貞鏡、後ヘニ弁秀・亨弁・潮音・真海列居ス、大僧正御出座、拝十念畢て両側列座御法則被下候、次於無為色心二光也[36]、了誉上人報恩蔵江御入。

とあり、門誉覚瑩、寺家・所化両役者、所化月行事等が大方丈に集まり、了誉上人像を報恩蔵に奉納した時の儀式の様子が記録されている。

この了誉上人像がどのような伝来のものかは、「古来よりありし」とあるだけで詳細はわからない。増上寺の『月番日鑑』の享保六年十月二十四日条によれば、同日、寺社奉行牧野因幡守に提出した覚書に、

伝通院開山了誉上人影像致焼失候故、慶安年中増上寺廿二世暁誉位産和尚被彫刻、当山於本堂内陣南之方ニ安置仕候霊像を、明廿五日伝通院影堂へ相移候、且又為其代了誉上人之新像を 大僧正被致造立、先規之通内陣南之方ニ安置仕候、
右之段被御聞置可被下候、以上。

とあり、伝通院所蔵の了誉上人の影像が焼失したため、十月二十五日に増上寺第二十二世暁誉位産の手になる影像を伝通院に移すことになり、その代わりとして、時の大僧正演誉白随が了誉上人の新像を造立して本堂内陣の南側に安置することになったという。翌二十五日には、本堂で新像の開眼供養が盛大に行われ、内陣の須弥壇に安置され、旧像は伝通院に奉還された[37]。あるいは、この時作られた了誉上人の新像が酉蓮社の本尊として報恩蔵に収められた「古来よりありし了誉上人の影像」であったのかもしれない[38]

先に挙げた『浄国寺日鑑』下冊「増上寺等日鑑八」の寛延三年十月五日条(2)報恩蔵への書籍奉納に関する後日談として、十一月四日条に次のようにある。

潮音和尚初て之開山講如例、報恩蔵江 大僧正ゟ書藉十九通り、被遊御納候由披露有之。

この日、月行事の一人潮音が初めて開山講を行い、その際、大僧正門誉覚瑩によって「書籍十九通り」が報恩蔵に納められたことが披露された。分量的に見ても嘉興蔵を指すとは考えられないが、本節冒頭に挙げた十月五日条の「報恩蔵書籍奉納之事」とは、この「書籍十九通り」を奉納したことを指すと見てよかろう。この記事のわずか二週間前には、了誉聖冏像が奉納されているから、これに備えるために聖冏ゆかりの書物が大僧正によって奉納されたものと推測される。聖冏には二百巻にも及ぶ著作があったと伝えられるが、例えば先に挙げた『浄土二蔵二教略頌』や、『教相十八通』・『七巻書籍[39]』等が考えられる。

余談ながら、十一月八日条に「仲間中入来待合せ如例軽やき出シ申候所、重てハ無用ニいたし候様霊妙和尚御申候也、前来茶・煙草盆計之格ニ候由、月番雅山和尚了誉・酉誉両上人尊影板木持参、仲間中江拝ませ被申候。」とあり、月番に当たっていた雅山が「仲間中」つまり所化月行事十二名[40]の集まりに了誉聖冏・酉誉聖聡の両像の板木を持参して拝ませている。これは酉蓮社の本尊である了誉上人像とは全く別の物であろうが、両師の肖像を版材に刻んだものが当時増上寺に伝わっていたことがわかる[41]

8 嘉興蔵の入手先

以上、増上寺・酉蓮社等に伝わる関連資料を使い、酉蓮社の創建について見てきた。しかしながら報恩蔵に納められた嘉興蔵がいつどのようにして入手されたかを記録した増上寺・酉蓮社側の資料はいまだ見つかっていない。ところが江戸中期の浄土宗捨世派の僧、向誉関通(一六九六~一七七〇)の伝記の類では、関通が寄贈したものとして伝えられている。

関通、字無礙・雲介子、一蓮社と号す。宝永五年、海東郡中一色村の西方寺(愛知県津島市)霊徹のもとで出家し、正徳元年より十三年間、増上寺で修行し、のち捨世主義をとって官寺に住せず、諸国を巡化し、念仏を勧め、浄土律の興隆に努めた。晩年京都に移り、北野の転法輪寺(宝暦六年創建)で没した。その伝記の一つ『関通和尚行業記』巻中に次のようにある[42]

師一日門人に告ていはく、「それ一大蔵経は、みなこれ如来真身の舎利、出世無上の珍宝なり。大聖すでに去り給ふといへとも、白法、世に住し、西刹、路を通することは、偏にこれによれり。祖師、黒谷の蔵に入てこれを閲覧し、専修の門をひらき給ふ。苟も護法に志あらんもの、またなんぞ忽緖にせん。予願はこれを安置供養して、深重の仏恩を報し奉ん」とて、すなはち浄貲を捨て、一大蔵経をこの寺に請せらる。しかれども寺境狭少にして、宝蔵を建るに便りあしかりければ、別に一室を営構して供養せらる。のち縁山の雅山上人道話のついで、「吾山蔵経に乏しからず、宋・元・韓の三本あり。これむかし神祖の寄付あらせ給ひしなり。しかるに蔵規厳にして、大衆の通覧に便ならず。別に一蔵を置て披閲せしめんこと、余がふかく願ふところなり」と申されけれは、師随喜して、すなはち此一切経本を移しおくらる。今縁山南渓酉蓮社の報恩蔵に安せる、これなり。

ここでは、酉蓮社蔵本は、法然上人が黒谷の経蔵で大蔵経を通覧して専修の門を開いた逸話に倣って、向誉関通が浄財を投げ打って招請したものであり、その後、雅山の道話に感銘を受けた関通みずからによって増上寺に寄贈されたとする。もう一つ注目すべきは、雅山の宿願を述べたくだりに、「増上寺には徳川家康によって寄附された宋本・元本・韓本(麗本)の三大蔵経があるものの、大蔵経の利用規約が厳格なため、「大衆」つまり所化衆が通覧できる状況にない[43]。そこで、この三本の他に一蔵を置いて閲覧させたい。」とあり、『三縁山志』「酉蓮社」条に見える「学徒策励」の意図するところが明示されている点である。

『関通和尚行業記』中、大蔵経招請に関する一段は寛保元年と寛延元年の記事の間に置かれているから、おおよそその間の出来事として記されていると見られる。この寄贈の経緯について、関通の伝記の一つ『向誉上人行状聞書』巻七「増上寺大衆披覧の蔵経納め給ふ事」は、次のように記す[44]

かくて上人、縁山所化衆披覧のため、一切経を納め給はん願ましまして、去る延享の初、摂州にて是を調へ給ひ、暫く尾陽の円輪舎に留め、芝山宗将の命公命を蒙りて、終に寛延元年六月二日、尾府をはなれ、同九日に東都縁山に、一切経当着ましまして奉納成就終りける。末代の什宝に残し給ふぞ。

誠に円光大師は、勝尾寺に一切経を納め給ふ。其例大衆披覧のため、後代助学志願浅からざる者か。依つて碩学雅山上人は、南新谷の寮主にてありしが、上人の志願を厚く随喜して、即経堂を建立ましまして、上人の志願を補助し給ふ。今縁山に有る蔵経是れなり。即山主門誉利天大僧正も、深く上人の志願を御随喜あらせられしとよ。時の人、往昔は法然勝尾に蔵経を残し、今関通縁山に蔵経をとどむと。大衆三千の所化随喜、披閲の自在なる事を歓喜しける。上人蔵経の建立、曽て一人にも奉加勧化寄進を勧め給ふ事、御生涯堅くなし。只御身を倹にして清施を積て、三資曽て奢らず、清浄施財の余力を以つてし給ふ。諸人奇特の思ひをなしけり。是れ増上寺大衆披覧蔵経の濫觴、上人の高徳に顕るなり。

ここでは、関通に増上寺の所化衆のため蔵経を納めたいとの志願があり、これに歓喜した雅山が支援して経堂を建立したことになっており、先引の『関通和尚行業記』に、関通が雅山の道話に感銘を受けて所持の蔵経を増上寺に寄贈したと記載されるのと異なる。どちらが先に志願したかという点で異なるが、雅山と関通の間で増上寺所化衆のために大蔵経を納めようとの話が持ち上がり、関通のもとに蓄えられていた浄財が購入資金に使われたという点で一致する。

また蔵経の入手から増上寺への搬送について、延享年間の初めに摂州で入手した後、しばらく尾張の円輪寺[45]に留め置き、増上寺の大僧正と公儀の命を待ってから、寛延元年六月二日に尾張を離れ、九日に増上寺に到着して奉納されたと記されている。寛延元年は、桃園天皇即位により延享五年七月十二日に改元されて始まるから、寛延元年六月は正しくは延享五年六月である。当寺の日鑑は増上寺の『(月番)日鑑』第八巻や『浄国寺日鑑』下冊「増上寺等日鑑七」に含まれているが、蔵経到着の記録はない。なおかつ現在、酉蓮社に伝わる嘉興蔵を納める経箱には「寛延二龍集己巳初冬」・「縁山報恩蔵経函」と墨書されており、寛延元年(延享五年)六月九日に増上寺に到着したとする『向誉上人行状聞書』の記述と一年以上の開きがあり、実際そのようなことがあったのかどうか信憑性に疑問が残る。

郁芳随潤編『関通上人略年譜』では、『向誉上人行状聞書』よりもさらに具体的な時日を記す[46]

延享二年 摂津難波ニテ一切経ヲ求ム(新旧目二)

延享三年 先ニ摂津ニテ求メシ一切経ヲ円輪寺ニ留ム(関中、聞七、行記三)

寛延元年 六月二日一切経ヲ尾張ヨリ運ビ九日縁山ニ納ム、雅山随喜シ経蔵ヲ建ツ(聞七、行記三、関中、新旧目二)

「( )」は『関通上人略年譜』の根拠となった文献の略称であるが、何という文献の略称であるかについては説明がない。「関中」は『関通和尚行業記』三巻の巻中、「聞七」は『向誉上人行状聞書』十三巻の巻第七、「行記三」は『向誉上人行状記』四巻の巻第三を指すと見られるが、延享二年に摂津難波で蔵経を求めたことの根拠とする「新旧目二」が何を指すかはわからない。

以上に述べた嘉興蔵の入手経緯について、増上寺側には全く記録が見当たらない。なおかつ現存の経箱に記される「寛延二龍集己巳初冬」は『向誉上人行状聞書』よりも一年以上後のものであり、経本自体にも関通との関係を伺わせるような書き入れ・印記は一切存在しない。よって『関通和尚行業記』や『向誉上人行状聞書』等に記されることが、すべて真実であったとは考えにくく、浄土宗捨世派の人々による想像が幾分含まれている可能性もある。

ところで『浄国寺日鑑』下冊「増上寺等日鑑八」の寛延三年十月十六日条に「周益寮ニて関通師江逢申候。」とあり、関通は報恩蔵建立後まもなく増上寺を訪れている。「周益寮」は常蓮社諦誉周益の持寮と見られる。周益については、『三縁山志』巻八「法系伝由」によれば、南中谷の南側、西から三軒目にあった無為窟の寮主として名が見え、後に学頭に昇り、さらに明和三年四月に小金東漸寺第三十一世となり、同七年五月に遷化している。

関通が来訪した目的は記されていないが、寛延三年五月に報恩蔵が上棟し、九月に酉蓮社の額が完成し、大僧正による儀式が執り行われ、十月二十日には了誉上人像が報恩蔵に奉納されていることから、報恩蔵建立の一連の儀式を直接見聞きしていた可能性がある。関通による嘉興蔵の寄贈の話が、かりに浄土宗捨世派の人々の想像に出たものであるとすれば、関通が増上寺滞在期間中に見聞きした報恩蔵建立の儀式がその想像の淵源となったと考えることができよう。

9 酉蓮社創建後の練誉雅山

練誉雅山は、酉蓮社創建後、順調に所化方のトップへと昇り詰めていった。まず『浄国寺日鑑』下冊「増上寺等日鑑八」の寛延三年九月晦日条に次のようにある。

貞鏡和尚月番被請取之、先月番霊学公後月番雅山和尚五人以上ニて、俊栄和尚六人以下ニて弁秀和尚会合也、請取渡相済候て案内申来り参り夕飯出ル。

「五人以上」とは、老僧席ともいい、所化月行事十二僧のうち上座の学頭から五﨟までを指すから、この時、雅山は五﨟以上に昇っていたことになる。余談ながら、『浄国寺日鑑』下冊「増上寺等日鑑八」によれば、この年十一月の月番を雅山が勤めている。そして、翌年二月に定められた『門誉覚瑩学寮方祝儀振舞制禁掟書』の末に、雅山は月行事十二僧のうち信的・霊学・貞鏡に次いで四番目に署名・捺印しており[47]、この時点で四﨟に昇っていたことを確認できる。

所化方の筆頭は学頭である。学頭は「一臈」ともいい、浄土宗の関東十八檀林所化の首座であり、一山の推薦によって選出され、宗外では「伴頭」と称した。一宗の教学に当たり、一山所化支配を司った[48]。宝暦二年正月に定められた『法問懈怠者定書』の末に、雅山は月行事十二僧の筆頭に署名・捺印し[49]、かつ同月に雅山が作成した『檀謝仰渡覚』では末尾に「学頭 雅山」と署名し、「猶龍」印(墨印)を捺している(図版【5】)。よって宝暦二年正月以前に学頭に就任していたことがわかる。また増上寺の『帳場日鑑』の宝暦二年十月三日条にも「学頭雅山和尚」の語を確認できる[50]

『三縁山志』「南四谷学寮列名」図(図版【1】)を見ると、袋谷に学頭寮が描かれている。そもそも学頭が袋谷の役寮に住するようになったのは、妙誉定月大僧正の代に学頭となった円海が当地に学寮を建立し、宝暦十年にその後を継いだ恵亮が学頭となった際に円海の学寮に移り、さらに明和元年八月に恵亮の次に学頭となった教運も同学寮に移って以降のことであり、円海より前は学頭となってもそのまま自寮に住していた[51]。雅山が学頭となった当時は、まだ学頭寮はなく、雅山も自寮に住していたはずである。

学寮はその時々の寮主の名で呼ばれるのが通例であるが、その他に代々用いられる寮名(室・窟・亭等)がある。先述の『檀謝仰渡覚』では雅山の署名の下に「猶龍」印が捺されており、かつ『三縁山志』卷首「篇目」の巻八「法系伝由」に「猶龍窟」の項目が挙げられていることから、雅山の自寮の名は猶龍窟であったと考えられる。ただし『三縁山志』巻八「法系伝由」には「猶龍窟」条が存在しないため、どのような由緒を持つ学寮であったか、また南谷のどこにあったかは不明である。

酉蓮社蔵本中、第四百十四函第六冊『阿毘達磨大毘婆沙論』巻第三十第十九丁裏・第百二十四函第六冊『舍利弗阿毘曇論』巻第二十二第三十一丁裏の二箇所に「猶龍屈」印が捺されており(図版【6】)、これも雅山の印ということになる。なお鵜飼徹定輯録『縁山詩叢前編』二巻(京都大学附属図書館所蔵谷村文庫、嘉永三年刊本)の見返しに「猶龍窟蔵」とあり、猶龍窟が江戸末期まで存続していたことを確認できる。

学頭は香衣檀林能化に欠員が生じた時の第一候補者である。雅山も学頭となってまもなく香衣檀林の住職に転じている。増上寺の『帳場日鑑』の宝暦二年十月二十五日条に「雅山和尚生実大巌寺住職ニ付、御奉書到来、明日仰付有之候之由。」とあり、竜沢山大巌寺玄忠院(下総国生実)の住職(第二十六世)に任じられた[52]。大巌寺住職在任中の文書としては、宝暦五年正月に定められた『諸檀林衆議判永規』が伝わり、関東十八檀林の各住職が連名する中、九番目に「生実大巌寺練誉雅山」と署名している[53]

宝暦七年五月十八日遷化。

10 歴代住職とその事跡

雅山は、嘉興蔵の入手、報恩蔵及び酉蓮社の創建に当たって、その願主として重要な役割を果たした。『三縁山志』「酉蓮社」条では「貫蓮社練誉上人天阿大愚雅山大和尚」の下に「大巌寺一代」とある。雅山は大巌寺第二十六世であるから、これは「後に大巌寺住職に転じた。酉蓮社第一代。」の意であろう。しかし増上寺の山内機構では、一旦寺持ちとなれば寺家方となり、所化方の昇進コースからはずれ、寺持ちのまま所化方のトップである学頭に就くことはない。雅山は酉蓮社の創建後まもなく学頭に昇り、さらに香衣檀林の大巌寺住職に転じており、所化方の出世コースを順調に歩んでいる。よって雅山はあくまで酉蓮社の願主であって、その住職とはならなかったと考えられる。「大巌寺一代」とあるのは摂門の勘違いであろう。それでは、酉蓮社創建当時、その住職となったのは誰であったのであろうか。

酉蓮社住職の選任基準については、『増上寺史料集』第四巻規約類聚の「山内酉蓮社報恩蔵規約〈并〉添書」に収録される『酉蓮社報恩蔵如法道場規約』によって知ることができる[54]。その第二条に次のようにある。

住持職については、練誉雅山和尚の法孫相続とし、もしふさわしい人物がいない場合には、道心堅固な上人を選んで、法類の願出でにより、吟味して決定することとする(住持職之儀者、可為練誉雅山和尚法孫相続、若相応之人体於無之者、選道心堅固之上人、従法類願出之上、遂吟味可相定事)。

本条は、雅山の法孫が酉蓮社の住職を相続するよう定めたものである。この規約は明和九年に定められたものであるが、創建以来の取り決めをある程度踏襲して作成されたと考えられる。そうであれば酉蓮社の初代住職は雅山の直系の弟子であったと考えるのが妥当であろう[55]

『三縁山志』「酉蓮社」条によれば、別院願主である雅山の下に、その世系として次の四人が掲出されている。

練城〈生蓮社貴誉 天明三ノ年七月十八日〉

―祐応〈誠蓮社実誉〉

―運理〈専蓮社心誉 文化六ノ年十一月廿一日〉

―了覚〈□蓮社真誉〉

これは雅山の法孫のうち酉蓮社の住職となった者を系図化したものと考えられる。練城を初代とすれば、『三縁山志』が執筆された文政二年までの間に、少なくとも四人の住職がいたことになる。このうち練城・運理のみ日付が記されている。そこでまず、この日付が何を指すかについて、『三縁山志』巻三「守廟清勢」の「通元院」条を例に考えてみたい。以下に通元院の世系を挙げる。

普碩〈光蓮社寂誉、正徳五ノ三月十日〉

―覚雄〈満蓮社行誉、享保十九ノ二月三日〉

―恵哲〈扁蓮社昭誉、享保六ノ六月十三日〉

―潮音〈勝蓮社殊誉、享保十三ノ九月廿日〉

―学単〈然蓮社自誉、明和二ノ七月二日〉

―詮我〈要蓮社〓誉、明和六ノ四月十一日〉

―天秀〈深蓮社高誉、寛政七ノ正月十七日〉

―顕理〈俊蓮社秀誉、文化三ノ九月十九日〉

―顕隆〈匡蓮社紹誉、寛政十ノ四月七日〉

―祐道〈香蓮社蘭誉、文化九ノ四月廿五日〉

―沢賢〈信蓮社行誉〉

―弁住

第二世覚雄の日付の方が第三世恵哲・第四世潮音よりも後年であり、第七世天秀の日付の方が第八世顕理よりも後年であり、日付が世系の順になっていない。このことから、世系に記される日付が住職就任日を指すものでないことがわかる。

第三世恵哲の下に「享保六ノ六月十三日」とあり、第四世潮音の下に「享保十三ノ九月廿日」とある。これに対し、増上寺の『月番日鑑』の享保六年六月十四日条に「御別当通元院恵哲、昨夕被致往生候付、…」とあり[56]、『月番日鑑』の享保十三年九月廿一日条には「仏心院ヨリ手紙ニテ、通元院昨日被致遷化候。」とあり[57]、享保六年六月十三日に恵哲が遷化し、享保十三年九月二十日に潮音が遷化していることを確認できる。これによって世系に記される日付が遷化日を指すことが判明する。

文政二年の『三縁山志』執筆当時の通元院住職と見られる第十二世弁住と、その先代の沢賢の下には遷化日が記されていない。これは『三縁山志』執筆当時、存命であったからであろう。遷化日が未詳の場合は当然日付が記されないであろうが、少なくとも世系の最後の方に記される住職は存命であったと考えてよかろう。

以上の考察を踏まえ、増上寺の日鑑・古記録等を頼りに、酉蓮社の世系とその事跡について考察してみたい。

練城

初代の練城については、就任・退任時期ともに不明であるが、少なくとも宝暦九年十二月二十三日から安永元年十二月二十七日まで報恩蔵の管理責任者となっていた。そのことを示す資料が、増上寺所蔵の近世文書の一つ『報恩蔵祠堂金利潤請取帳』である。

表紙には「宝暦九卯年/報恩蔵祠堂金利潤請取帳/十二月廿三日 〈蔵主/恵城〉」とあり、以下、宝暦九年十二月二十三日から安永元年十二月二十七日まで計十七件の報恩蔵祠堂金の利潤請取等に関する覚え書きが年次順に綴じられ、最後に宝暦九年までの祠堂金の利潤余金の預かりの覚え書きが綴じられている。以下に全文を列挙する。なお覚え書き冒頭の「覚」字は省略し、丸数字で整理番号を付した。

①一金四拾六両弐歩

右者報恩蔵卯年分利潤也。来辰年分雑用可仕旨被仰渡、慥収納仕候。

宝暦九卯十二月廿三日 恵城印

御月番 単笛和尚

②一金四拾六両弐歩

右者報恩蔵辰年分利潤也。来巳年分雑用可仕旨被仰渡、慥収納仕候以上。

宝暦十庚辰極月廿三日 新谷恵城印

御月番 恢弁和尚

③一金四拾六両弐歩

右者報恩蔵巳年分利潤也。来午年分雑用可仕旨被仰渡、慥収納仕候以上。

宝暦十一巳年極月 練城印

御月番 周益和尚

④一金四拾六両弐歩也

右者報恩蔵午年分利潤也。来未年分雑用可仕旨被仰渡、慥収納仕候以上。

宝暦十二午年極月 練城印

御月番 周為和尚

⑤一金三拾三両也

右者報恩蔵未年分之利潤也。来申年分雑用可仕旨被仰渡、慥収納仕候以上。

宝暦十三未年極月 練城印

御月番 周為和尚

尤今未年ゟ年壱割之利潤相成候旨被仰渡承知仕候。

⑥一金六両

右者当年司堂金利潤年壱割相成候ニ付、雑用等不足仕。依之御頼申上候処、修復金之内御渡被下、慥収納仕候以上。

未十二月廿五日 練城印

御月番 周為和尚

⑦一金三拾三両也

右者報恩蔵申年分之利潤也。来酉年分雑用可仕旨被仰渡収納仕候以上。

明和元申年閏十二月廿三日 練城印

御月番 慈弁和尚

外ニ金六両御頼申上候所司堂金利潤修復料之内六両御渡被下、慥[58](印)収納仕候。尤後例ニ者不相成旨被仰渡委細承知仕候以上。

申閏十二月廿三日

⑧一金三拾三両也

右者報恩蔵酉年分之利潤也。来戌年分雑用可仕旨被仰渡、収納仕候以上。

又金六両御頼申上候処、祠堂金利潤修復料之内御渡被下、慥ニ収納仕候以上。

明和二酉年十二月廿二日 練城印

御月番 栄純和尚

⑨一金六拾六両也

右者法恩蔵歳請金、去ル酉ノ歳迠之利足積金、此度修覆仕候付被申置候様御願申上候処、三月中御仲間中御見分等相済、御役所江被仰達候処、三月廿九日安勝院様御参詣御取込ニ付、御役所御見分等及延引、今日金子可相渡段被仰渡候由、金子御渡被下難有受取申所実正也。

明和三戌年四月四日 練城印

三月御月番 周瑞和尚

⑩一金四拾両也

右者報恩蔵戌年分之利潤也。来ル亥年分雑用可仕旨被仰渡、収納仕候以上。

明和三戌年十二月廿三日 練城印

御月番 霊忠和尚

⑪一金四拾両也

右者報恩蔵亥年分之利潤也。来ル子年分雑用可仕旨被仰渡、収納仕候以上。

明和四亥年十二月廿三日 練城印

御月番 満空和尚

⑫一金四拾両也

右者報恩蔵子年分之利潤也。来丑年分雑用可仕旨被仰渡、収納仕候以上。

明和五子年十二月廿三日 練城印

⑬一金四拾両也

右者報恩蔵丑年分之利潤也。来寅年分雑用可仕旨被仰渡、収納仕候以上。

明和六丑年十二月廿三日 練城印

御月番 曇竜和尚

⑭一金四拾両也

右者報恩蔵寅年分之利潤也。来卯年分雑用可仕旨被仰渡、収納仕候以上。

明和七寅年十二月廿二日 練城印

御月番 騰冏和尚

⑮一金三拾両也

右者報恩蔵修復料利足積金也。此度紹普請仕候ニ付、願之通御渡被下、慥ニ収納仕候以上。

明和八卯年八月廿一日 練城印

御月番 騰冏和尚

⑯一金四拾両也

右者報恩蔵卯年分之利潤也。来ママ年分雑用可仕旨被仰渡、収納仕候以上。

明和八卯年十二月廿三日 練城印

御月番 諦禅和尚

⑰一金三拾両也

右者従御役所年五拾両宛御月番江被成御請取、内四拾両者即刻被下御渡、残置カ拾両者被成積金ニ、修復等之砌、依願唯今迄被下御渡候所、此度別院ニ被仰付候ニ付、右金三拾両不残被下御渡、慥ニ請取申候以上。

安永元辰年十二月廿七日 酉蓮社 練城印

御月番 潮天和尚

⑱一金拾弐両者 卯歳〈報恩蔵祠堂利潤余金也〉迠之金子、  慥預申候以上。

宝暦九卯年十二月廿九日 隆善印

「蔵主恵城」は利潤請取の際の受領者であると同時に、表裏の表紙の糸綴じ部分に「恵/城」印が捺されていることから、本『請取帳』の作成者でもあることがわかる。①②は「恵城」と署名され、③から⑰は「練城」と署名され、①から⑧は「恵城」印が捺され、⑨から⑰は「練」字をかたどった意匠の印が捺されている。練城が署名する③から⑧にも引き続き「恵城」印が捺されていることから、恵城と練城は同一人物であり、宝暦十一年に練城に改名したと見られる。また②には「新谷恵城」とあることから、恵城は新谷に住していたことがわかる。表紙に「蔵主恵城」とあるが、「蔵主」は報恩蔵の蔵主の意であろうから、堂舎建立以前、練城は正式には酉蓮社住職となっておらず、了誉聖冏像と嘉興蔵を奉納する報恩蔵の管理者を自認していたと考えられる。

本資料のうち①から⑰は、報恩蔵の祠堂金によって生じた利益の受け取りについて蔵主恵城(のち練城)が所化月行事の月番に提出した覚え書きである。祠堂金とは、祠堂の修復を名目にして寺に寄進された金銭のことで、寺院はこれを貸し付けて利潤を得ていた。報恩蔵も祠堂金の利潤によって日々の管理運営・修復を行っていたのである。以下に『報恩蔵祠堂金利潤請取帳』の内容を分析し、報恩蔵創建当時の運営状況をその資金面から考察してみたい。

宝暦九年十二月二十九日、この年までの報恩蔵祠堂金の利潤の残金十二両を学頭の隆善[59]に預けている(⑱)。

宝暦九年から十二年にかけては、毎年十二月にその年の祠堂金の利潤四十六両二歩を翌年分の管理運営費として所化月行事の月番から受領していた(①~④)。宝暦十三年から利潤が年利一割に変更となったため、十二月に宝暦十三年分の利潤三十三両を宝暦十四年(明和元年)分の管理運営費として受領した(⑤)。しかし十三両二歩も減額されたため管理運営費が足らず、請願して修復金の利潤から六両を受領した(⑥)。明和元年・二年の両年も前年と同じく、年利一割として三十三両を管理運営費として受領し、例外的措置として、不足分を修復料の利潤から六両受領した(⑦⑧)。

祠堂金のうち管理費が年利一割であった時に請取額が三十三両であったのであるから、元金は三百三十両ということになる。宝暦九年から十二年の間は、利潤が年四十六両二歩であったのであるから、年一割四分の利潤であったことがわかる。

明和三年三月、報恩蔵の修復が必要となったため、四月四日に方丈役所の見分を経て、明和二年まで積み立てた祠堂金の利足六十六両を月番周瑞から受領した(⑨)。この記録により、明和三年に報恩蔵の修復が行われていたことがわかる。祠堂金の修復料の利潤については、宝暦九年十二月二十九日に隆善に十二両を預け(⑱)、その後、宝暦十年から宝暦十二年の三年間は年利一割四分であり、宝暦十三年から明和二年の三年間は年利一割となって、そのうち毎年六両を管理運営費の不足分として受領していた。以上の条件で明和三年の積立金額が六十六両となるのは、元金が百両の場合である。よって明和二年までの祠堂金は、修復料百両、管理運営費三百三十両、合計四百三十両であったことがわかる。

明和三年から明和八年までは、利潤が四十両に変更となっているが(⑩~⑯)、変更の理由は特に記されていない。年利一割のままだとすれば、祠堂金のうち管理運営費の元金が四百両に増額されたことになる。また明和八年八月には増築工事のため修復料の利足積立金から三十両を受領している(⑮)。修復料の利潤は年十両であり、明和三年から明和七年までの五年間で五十両積み立てていたはずであるから、今回の支出で残金が二十両となったはずである。

明和九年には、祠堂金をめぐって重大な出来事があった。それは十一月の『酉蓮社報恩蔵如法道場規約』の下付である。その第五条に報恩蔵の祠堂金の管理と利潤の用途について、次のように定められた。

祠堂金については、従来、月行事が取り扱っていたが、このほど方丈役所にて勘定することに改める。ただし祠堂金五百両のうち、百両の利潤で修復し、四百両の利潤で永代に三宝を供養し、途絶することなく、破綻させることなく院務を執り行うこととする(祠堂金之儀、従来月行事作配之処、今般相改役所より差引可有之事。尤祠堂金五百両之内、金百両之以利潤、修復を加へ、四百両之利潤を以、永代三宝供養、無退転、不破壊様、可有院務事。)

これによれば、祠堂金五百両を貸し付けて、そのうち百両の利潤を報恩蔵の修復に充て、四百両の利潤を酉蓮社の管理運営費に充てるよう定められている。ここに管理運営費の元金が四百両と明記されていること、かつ先述のように明和三年から管理運営費の利潤が四十両に変わっていることから、明和三年にその元金が三百三十両から四百両に増額されたと考えてよかろう。

明和九年は十一月十五日に安永元年に改元された。『報恩蔵祠堂金利潤請取帳』の覚え書き⑰によれば、安永元年十二月二十七日、酉蓮社練城は月番より三十両を受領した。報恩蔵の祠堂金は全五百両あり、年利一割で毎年五十両の利潤を得ていた。この利潤は毎年方丈役所から月番へ渡され、そのうち四十両は管理運営費として即刻酉蓮社に渡され、残り十両を積み立てて、修復等が必要な時に申請して受領していた。ところが酉蓮社が別院に改格となったため、それまで積み立てられた修復料の利潤三十両が全額酉蓮社に渡されたのである。先述のように、明和八年八月時点での残額は二十両であり、これに明和八年分の利潤十両が加わり、三十両となったのである。『酉蓮社報恩蔵如法道場規約』第五条に明和九年から酉蓮社の祠堂金の管理が方丈役所で行われることになったとあるのは、酉蓮社が別院に改格され、所化方から寺家方の管轄下に移ったことを示している。練城が正式に酉蓮社初代住職となったのもこの時と考えてよかろう。なお明和九年分の修復料の利潤は、『酉蓮社報恩蔵如法道場規約』施行後に発生したものであるため、方丈役所から渡されたはずである。

練城の代には、酉蓮社開山(開基)が典誉智瑛に決定されている。典誉智瑛は、伊勢の生まれで、度会郡射和村延命寺の二十八世空誉の弟子となって剃度した。のち増上寺の三島谷白随(享保二年三月、増上寺第三十八世)寮で修学し、学頭に進み、大念寺第二十四世、飯沼弘経寺第四十八世、伝通院第三十五世を歴任し、明和七年十一月十五日に増上寺第四十八世に就任した。安永二年遷化。『三縁山志』巻十「列祖高徳」の典誉智瑛の伝には「事蹟伝ふ事なし」とあり、従来増上寺が命じていた善導寺(筑後)住職を、奏願によって台命住職に改めたこと、清涼寺(嵯峨)住職を増上寺学席から選任することに改めたことの他、特に目立った事跡を残していない。

後世このような評価を得ていた典誉智瑛が酉蓮社の開基となった経緯は、明和九年十一月に定められた『酉蓮社報恩蔵如法道場規約』によって知ることができる。先に第二条・第五条を引用したが、以下にその全文を挙げておく。

酉蓮社報恩蔵如法道場規約

一、酉蓮社之儀者、先年願主練誉雅山和尚草創ニ而、近来新谷学寮一列に相定候処、今般願主志願之通、当大僧正為開山以思召別修浄業之道場改格被遊候付、新谷并之空地江、学寮一宇建立、谷役等相勤、酉蓮社者別院与相定之上者、不混学寮諸事、別院格ニ取計、弥可為如法執行事。

一、住持職之儀者、可為練誉雅山和尚法孫相続、若相応之人体於無之者、選道心堅固之上人、従法類願出之上、遂吟味可相定事。

一、蔵本出入之儀、平日者勿論、別而法門(「問」の誤り)中大衆通覧之事候得者、可為境外不出、尤虫干等可為厳密事。

一、不依何事、諸願訴訟等之儀、帳場江罷出、可申達事。

一、祠堂金之儀、従来月行事作配之処、今般相改役所より差引可有之事。尤祠堂金五百両之内、金百両之以利潤、修復を加へ、四百両之利潤を以、永代三宝供養、無退転、不破壊様、可有院務事。

一、火之用心可為専要、且学寮相隣之場所ニ候得者、平日閑寂を専とし、歌舞高声等、惣而物騒敷儀無之、朝暮勤行ニも小鐘を用ひ、如法に可相勤事。

一、葷酒等可為禁制事。

一、浪人体之者不可抱置、縦令雖為親縁、止宿堅停止之事。

  右之条々、永代無異乱可相守者也。

    明和九辰年十一月

典誉大僧正御代役者
天 随
潮 天
清光院
花岳院

第一条は酉蓮社建立の由来・経緯と別院への改格、第二条は住職の選任基準、第三条は蔵本、つまり嘉興蔵の管理、第四条は諸願訴訟等の届出先、第五条は祠堂金の管理と利潤の用途、第六~八条は酉蓮社管理上の注意事項について、それぞれ述べたものであり、最後に所化役者二名・寺家役者二名(清光院延誉教我・花岳院常誉諦雲)の署名がある[60]

この規約は、明和九年十一月に定められたものである。よって典誉智瑛が酉蓮社の開基となったのは、寛延三年に報恩蔵が完成して酉蓮社の寺額が出来上がってから、すでに二十二年も経った後であったことになる。開基の決定がこれほど遅れた理由は、『三縁山志』「酉蓮社」条に「其後明和九辰年迄に堂舍建立全備す。其時典誉大僧正開基と称せられ、浄業修行の香衣別院と定めらる。」と簡略に説明されているように、酉蓮社の堂舎が典誉智瑛の代になってようやく完成したからである。この間の経緯を詳しく述べたのが、規約第一条である。以下に現代語訳を挙げる。

酉蓮社の件は、先年(寛延三年)願主練誉雅山和尚の草創であって、近年、新谷の学寮の並びに決まったので、このほど願主志願の通り、今の大僧正を開山とした。大僧正の意向により別修浄業の道場に改格されたので、新谷の並びの空き地に学寮一棟を建立し、谷役等を勤めること。酉蓮社は別院と定められたのだから、学寮の諸事に関与することなく、別院格で取り計らうので、なお一層常法として執り行うこと。

ここでいう願主雅山の「志願」とは、本条から推察するに、後日酉蓮社の堂舎が完成したら、時の大僧正を酉蓮社の開山(開基)として定めてほしいということのようである。典誉智瑛は『三縁山志』の伝記にはさしたる事跡がないと評されているが、酉蓮社の創建に当たっては、その堂舎建立時の大僧正であったばかりでなく、浄業修練道場の別院として寺格を改め、学寮を創建し、谷役等の勤めを果たすよう命じる一方、学寮の諸雑事を免除し、別院格で取り計らうことを決定する等、開基にふさわしい事跡を残していたのである。

規約第一条からは、酉蓮社の創建について、もう一つ重要な事実が浮かび上がってくる。先述の報恩蔵創建当時の記録を振り返るに、報恩蔵の上棟と酉蓮社の寺額の完成については記録があるが、酉蓮社の堂舎についてはまったく言及がない。このことと規約第一条を考え合わせると、報恩蔵は寛延三年の時点ですでに完成していたのに対し、その管理者たる酉蓮社の住職が住する堂舎は、典誉智瑛の代になるまで建立されず、その建立地すら決まっていなかったことがわかる。また規約第一条において、学寮の諸雑事に関与しなくてよいと規定されているのは、酉蓮社が別院に改格されるまでは、所化方の一員として学寮の諸雑事を執り行っていたことの裏返しである。

堂舎の建立まで酉蓮社の住職がどこに住していたかは記録がないのでわからない。しかし規約第二条で酉蓮社の住職について雅山の法孫相続と定めている点に着目すれば、雅山の持寮である新谷の猶龍窟を代々継承していた可能性がある。

以下、未訳の各条について現代語訳しておく。

第三条 蔵本の出納については、平日はもちろん、とりわけ法問の際に所化僧が通覧することがあるので、境外に持ち出さないこととし、特に虫干等はしっかり行うこととする。

第四条 何事によらず、諸願・訴訟等は帳場に出頭して申し伝えることとする。

第六条 火の用心はとりわけ重要である。なおかつ学寮に隣接した場所であるから、平素から閑寂に務め、歌舞・高声など、概して物騒がしくすることなく、朝暮の勤行にも小鐘を用い、平素より自重すべきこととする。

第七条 臭気のある野菜や酒の類は持ち込み禁止とする。

第八条 浪人の類は抱えおいてはならない。たとえ親類縁者であっても、決して止宿させないこととする。

いずれも酉蓮社の住職に対して、酉蓮社及び報恩蔵の管理・運営について規定したものである。特に第三条の存在とその位置とは、酉蓮社に求められていた役割が嘉興蔵の管理にあったことを明示している。

以上が初代住職練城(旧名恵城)の事跡とその代の出来事である。

天明三年七月十八日遷化。

祐応

祐応については、『三縁山志』では「酉蓮社」条の他に、巻八「法系伝由」の「碧雲室」条の増上寺第三十六世明蓮社顕誉祐天の法系中、祐天寺第二世祐全の弟子の一人として、その名が見える。しかし酉蓮社の住職は原則として雅山の法孫と定められているから、祐全の弟子と同一人物とは考えにくい。就任・退任時期ともに不明。後述のように、祐応は後に練山と改名していた可能性がある。練山は天明五年三月に酉蓮社住職を退任し、運理が跡を継いでいる。法諱の下に遷化日を記さないが、天明五年から『三縁山志』の執筆された文政二年までは約三十五年もあることから、当時存命であったのではなく、単に遷化日がわからなかった可能性が高い。

運理

運理については、増上寺の『帳場日鑑』の天明五年二月七日条に「弐本榎清林寺組檀方及運理寮周海参上、於御仮館集会、右寺住職被仰付旨、寂信申渡候事。」とあり、運理寮にいた周海が弐本榎清林寺(金泉山五劫院、港区高輪)の住職を命じられた時の記録がある[61]。これは酉蓮社住職就任前の、寮持ちであった時期の記録である。

酉蓮社の住職に就任した時の記録としては、『帳場日鑑』の天明五年三月十五日条に、

酉蓮社練山隠居願差出候ニ付、御披露、御免被申渡候、右ニ付後住之儀、運理ヘ被仰付被下候様、練山并法類願書差出候事。

とあり、当時の酉蓮社住職練山が隠居を申し出て許され、『酉蓮社報恩蔵如法道場規約』第二条に定められた通り、その後任として運理を住職に任命するよう練山とその法類が願い出ている。これを受けて、三月十九日条に、

運理参上、於例席酉蓮社住職被仰付旨申渡、畢テ於書院御礼申上候事。

右酉蓮社住職運理ヘ被仰付候旨、別院年番心光院被申達候事。

とあり、運理が酉蓮社住職に正式に任命された。これに伴い、三月二十日に運理寮が召し上げられ、翌日、その跡寮に雲興が転寮するよう命じられている[62]

『三縁山志』「酉蓮社」条によれば、酉蓮社の世系は、練城・祐応・運理・了覚と次第し、練山の名は見えない。法諱の似ている練城は、天明三年七月十八日に遷化しているから、天明五年三月に酉蓮社住職を退任した練山と同一人物ではありえない。よって祐応の後、運理の前に、練山が酉蓮社住職となっていたと考えられる。あるいは、恵城が練城と改名したように、祐応が練山と改名した可能性もある。

酉蓮社の歴史において運理が行った重大な仕事は、酉蓮社の寺格の確定である。『帳場日鑑』の天明五年八月十七日条に、

別院上座六ケ院参上、差出願書如左。

 拙院共儀、是迄於御山内ハ寺格結構ニ御取扱被成下、難有奉存候、然処公儀ヘ御礼申上候儀も無御座候故、独礼・惣礼之間、不分明候様ニテ、武家方等葬式・法事等之節、他門之出会ハ勿論之儀、一宗之寺院出会辺も、取次難相弁儀御座候テ、外実共差支多、痛心至極ニ奉存候、依之今度一同奉願候ハ、何卒御憐愍を以、独礼格ニ御定、御許容被成下置候ハハ、難有仕合ニ奉存候、以上。

天明五巳年八月            恵照院
妙定院
心光院
酉蓮社
清光寺
福聚院

とあり、恵照院・妙定院・心光院・酉蓮社・清光寺・福聚院の別院上座六院は、江戸城に登城して御礼をする機会がないため、各寺院の寺格が独礼・惣礼のいずれであるかが不明瞭であり、武家方の葬式・法事等、何かと差し障りがあるので、寺格を独礼格に定めるよう求める請願書を方丈役所に提出している。

そもそも江戸時代の寺格制度において、江戸城に登城して入院の御礼や念頭の御礼をする際、特別の待遇を与えられていた寺院を「格寺」といい、そのうち将軍に単独で拝礼するものを「独礼」、合同で拝礼するものを「惣礼」といった[63]。当時の増上寺の山内寺院では、御霊屋別当寺院(安立院・恵眼院・最勝院・真乗院・瑞蓮院・通元院・仏心院・宝松院の八院、岳蓮社・鑑蓮社・松蓮社の三蓮社)にのみ独礼が認められていた。

この願書に対し、八月二十日条に、

別院上座六ケ院参上、於役所当十七日差出願書及披露候処、御聞届無之、依之願書差戻候段被申達、畢テ役僧ヨリ暫控居候様及内達置候処、亦々役所被呼出、此度思召を以独礼格ニ被仰付候間、其段可存旨被申達、即刻御礼申上候事、但、白木書院ニテハ三蓮社並ニ取扱候事。

右ニ付、三月番松蓮社ヨリ使僧并別院次座宝珠院呼出、御達如左、

ママ
妙定院
心光院
酉蓮社
清光寺
福聚院

右六ケ院、今般思召を以、独礼格ニ被仰付候事。

とあり、別院上座六院は独礼格寺院を拝命し、方丈内の白木書院においては別当三蓮社並みに扱われることになった[64]

もう一つの重大案件としては、『酉蓮社添規約』の下付が挙げられる。『帳場日鑑』の天明五年九月三日条に「酉蓮社添規約、依願於役所被下置候事。」とある[65]。この『添規約』は、『増上寺史料集』第四巻の「山内酉蓮社報恩蔵規約并添書」に収録されており、その全文を見ることができる。

添規約

其院新谷并空地、学寮一宇創建候様、明和九辰年被仰渡候処、祠堂財少分故、経蔵修復茂行届兼候趣ニ付、此度任願、右新建之儀、永御容赦ニ候、且自坊建継作事、御免被遊候、尤非常之節、通路不差支様致勘辨、蔵本護持可為肝要候、仍証状如件。

天明五巳年九月

現誉大僧正御代役者

浄運院
林松院
寂 信
在 禅[66]

酉蓮社

先述のように、酉蓮社は明和九年に堂舎が建立され、別修浄業の道場に改格されたのに伴い、新谷の並びの空き地に学寮一宇を創建するよう命じられていた。しかし天明五年当時の酉蓮社は祠堂金が少なかったため、学寮の創建はおろか、経蔵の修復さえもままならぬ状態にあった。そのため学寮の創建と自坊の増築普請を放免するよう求める嘆願書を提出し、それが認められ、『添規約』を下付されたのである。

その他、運理の代の出来事を挙げておく。

『帳場日鑑』の天明八年十月十九日条によれば、寺社奉行衆による山内見分が行われ、その道順の記録に、

(前略)次方丈ヘ御立寄御休息有之、夫ヨリ三嶋谷・神明谷・八軒谷ヨリ表門通リ、南横町産千代稲荷前ヨリ袋谷・中谷・天神谷・新谷、報恩蔵ヨリ安立院・宝松院・恵眼院、仏心院前ヨリ松原通、裏門ヘ御帰被成候事。

とあり、報恩蔵の名が見える[67]。報恩蔵は増上寺の山内で南東の角地の隅にあったため、酉蓮社の堂舎よりも道順の目印とするのに適していたということもあったであろうが、そればかりではなく了誉聖冏像や膨大な嘉興蔵を擁するある種の参詣スポットとなっていたと見られる。

また『帳場日鑑』には酉蓮社の空き地を所化僧に譲渡した時の記録が見える。すなわち寛政元年四月三日条に、

新谷在源儀、酉蓮社持明地、今般譲請候段、内約治定ニ付、願書差出候ニ付、於帳場請取之、明日為伺罷出候様相達、役所申達置候事。

とあり、酉蓮社所有の「明地(空き地)」について、新谷の所化僧在源[68]が譲り受けることに内定し、その願書が帳場に受領された。これを受けて、翌四日条に、

新谷在源、酉蓮社持明地、譲請度願書差出候ニ付、月番在心ヘ掛合候処、谷頭并谷老僧等ヘ聞合候処、差支無之趣ニ付、奥書仕候段申立、尤右地面ハ前来御触等も有之ニ付、尚又為念一応承合候段、法月被申述候ニ付、罷帰相糺、明日委細可申立旨ニ候事。

とあり、五日条に、

新谷在源、相願候地面之儀、月番在心罷出、昨日御問合ニ付、猶亦谷中相糺候処、何れも差支無之旨ニ有之段相届候ニ付、在源呼出、為見分役向罷越候段相達、尤八時役僧了契、行者満周、佐藤新左衛門、火之番罷越、及見分候処、差支無之趣、役所申達候事。

とあり、方丈内役は各所に問題がないか問い合わせ、念入りに確認している。そして、六日条に、

新谷在源参上、地面譲請之儀、於役所願之通被仰付候旨、学円申渡候事。

とあるように、在源への空き地譲渡の件が正式に認められた。譲渡に当たって、これほど念入りに確認作業を行った背景には、四月四日条に「尤右地面ハ前来御触等も有之ニ付、尚又為念一応承合候段。」とあるように、酉蓮社の空き地には「前来御触等」、つまり明和九年十一月の『酉蓮社報恩蔵如法道場規約』・天明五年九月の『添規約』によって、学寮の創建をめぐる問題がかつて存在したからである。この譲渡は『添規約』によって酉蓮社が学寮創建の命から放免されて約四年後に行われており、空き地の所有権が酉蓮社から手放されていく様子を見て取れる。この時、在源に譲渡された空き地がどの部分でどの程度の広さであったか、また譲渡の目的が何であったのかはわからない。

運理の退任時期は不明であるが、杜多円暢著『法洲和尚行業記[69]』巻上に、

寛政十年戊午六月八日、空誉義柳上人一周の諱辰なれば、その追善別行を修し、爾して思はれけるは、予ハ上人の遺意に報ひて、住庵已に三年なり。従来東行の志願もあればとて、十月十一日妙蓮庵を退居せらる。師この住庵中、自坊及び他の請に応じ、勧誡化導いとせちなりしかば、道俗の帰依弥よ深く、日課誓受の人ども夥かりし。同月廿二日京師を発し、十一月七日江戸芝酉蓮社運理上人の許に著し、同十五日新谷歓信寮に寓せらる。

とあり、寛政十年十一月に託阿法洲が酉蓮社運理のもとに到着したとの記録があることから、遅くともこの時まで運理が酉蓮社の住職であったことは確かである[70]

次に運理存命中の出来事を二つ挙げておく。『酉蓮社報恩蔵如法道場規約』の『添規約』の後に、

右享和元酉年十月廿七日、空地、思召を以御取上ニ付、規約共御取上ニ相成候事。

と朱書きの一文が加えられており、享和元年十月、第五十五世宝蓮社薫誉在禅の意向により、酉蓮社に下付された空き地と規約がともに取り上げとなっている。このとき取り上げられた規約が『酉蓮社報恩蔵如法道場規約』だったのか、それとも『添規約』だったのかは、この記載からは判然としない。しかし文政二年に刊行された『三縁山志』では依然別院として扱われているから、規約に記されるすべての条項が取り上げとなったわけではなく、空き地の件についてのみ取り上げとなったのであろう。

『三縁山志』巻第十一「境内地理」の「類焼」条に「文化三寅年三月四日〈牛町より出火〉山下南谷〈妙定院より西は残り、東にて円淑寮残る〉南の四谷残らす焼亡。御別当安立院・恵眼院・宝松院・最勝院、別院清光寺・酉蓮社・清林院、坊中林松院・隆崇院・瑞花院・瑞善院・安養院・徳水院・浄運院・清光院等焼失。」とあり、文化三年三月に酉蓮社は牛町より出た火災により一度焼失している。しかし現存する酉蓮社蔵本を見る限り、経本自体が火災による被害を受けた痕跡は見当たらない。住職の居処たる酉蓮社は消失したものの、報恩蔵はその防火に優れた立地のおかげで類焼を免れたのかもしれない[71]

文化六年十一月二十一日遷化。

了覚

了覚については、就任・退任・遷化の時期いずれも不明。『三縁山志』「酉蓮社」条が世系の最後に配していることから、文政二年当時の住職であったと見られる。

11 摂門の見た酉蓮社

文政二年当時の酉蓮社を取り巻く環境を活写したものに、前掲の『三縁山志』「酉蓮社」条「新題八景」がある。

八景とは、ある地域の八つの優れた風景を選ぶ風景評価の一様式であり、中国の伝統的な画題「瀟湘八景」の影響を受け、中世から近世にかけて盛んに作られるようになった。一景は場所を表す前二字と、景物を表す後二字の四字からなり、これを詩題として漢詩や和歌が作られ、八景を描いた絵図に書き添えられることもあった[72]。「新題」とは『三縁山志』の著者摂門が「新たに題した」の意であろうから、摂門自身が実際に酉蓮社から見える風景の中から優れたものを選び、八つの詩題にまとめたものと思われる。以下に原文と現代語訳を挙げておく。

蓮社斜月  酉蓮社の上には西方に沈みかけた月

万戸暁煙  夜明け前のもやが立ちこめる家々

赤水一帯  帯のように延々と流れる赤羽川

芝浦征帆  芝浦に遠く去りゆく舟

総山翠黛  緑にかすむ三縁山

縁林淡靄  松原に淡くかかるもや

菅廟梅雪  飯倉天満宮に満開の梅の花

南堤残花  南の土手に散り残った桜の花

摂門は、『三縁山志』の他に、関東十八檀林を巡礼する際の順路や各檀林での参拝スポットを記した『檀林巡路記』という書物を出版している[73]。その「第一番 三縁山広度院増上寺」に「了誉上人堂 新谷酉蓮社」とある。「了誉上人堂」とは了誉聖冏像を祀ったお堂の意であり、かつその所在を「新谷酉蓮社」と記していることから、了誉聖冏像を本尊とする報恩蔵を指すと考えて間違いない。摂門が増上寺の参拝スポットの一つとして報恩蔵を挙げたのは、当時、増上寺開山酉誉聖聡の師である了誉聖冏像に対して、参詣を希望する信徒が少なくなかったことを反映していると考えてよかろう。

12 文政二年と天保十三年頃の南四谷学寮と酉蓮社

先述のように、摂門は、『三縁山志』巻第十一「九谷」条に「文政二卯年四月南四谷寮主列名」図を収載し、文政二年四月当時の南四谷の学寮の配置を記録した(図版【1】)。その二十三年後の天保十三年の南四谷の様子を描いた山内絵図が増上寺に伝わっている。実物は未見であるが、小島章見氏がかつて増上寺で閲覧し、その模写が同氏の「徹定上人の著作論考―特に嘉永年代を中心とする壮年期の著作について―」に収載されている[74]

小島氏によれば、この山内絵図は「三縁山絵図」と題された掛け軸で、縦五十四センチ、横六十センチあり、その右上方に「天保十三年寅歳極月中旬改之 北山人泰見亭梅月 画 「融/誉」印」と記され、左下方に「融誉円道主 「梅月」「融誉」印」と記されているとのことである。

本図によれば、酉蓮社は文政二年当時と変わりなく、赤羽川(現在の古川)と桜川に囲まれた増上寺山内の南東の角にあり、敷地の広さも北隣の慧俊寮(旧存広寮)・徹定寮(旧静山寮)・玄霊寮(旧実隆寮)を合わせたのと同程度である。敷地内の西側には「○酉蓮社」と記されており、南東の角には「報ママ蔵」と記され、その右脇に「酉蓮社/了誉上人安置」と記されている。また桜川に面する敷地の東側には木々(小島氏は「松林」とする)が描かれ、南側の赤羽川の対岸には「ヒヨケ明地」が描かれている。

図版【7】「文政2年・天保13年の南四谷と酉蓮社」は、文政二年・天保十三年当時の南四谷の学寮と酉蓮社の配置を整理したものである。「→」の上が文政二年当時の学寮(学寮主)名、下が天保十三年当時の学寮(学寮主)名である。小島氏の模写図のうち、不鮮明で判読できなかった文字は「□」で表し、おおよそ推測した文字は「[ ]」で表し、空欄の寮は「-」で表した。

なお調査の過程で増上寺所蔵の山内絵図を閲覧させていただく機会を得た。『三縁山絵図』に近似した書名を持つ『三縁山旧図』という彩色地図(一軸)をご用意いただいたが、彩色に用いられた朱系の顔料によって癒着が生じていたため開くことができず、閲覧を断念した。増上寺はこの他にも江戸時代に描かれた山内絵図数点を所蔵しており、そのうち元治元年『一山総構赤羽川端通絵図』(一枚、彩色地図、図版【8】)、作成年代未詳の『縁山山内図』(一軸、彩色地図、図版【9】)において酉蓮社に関する記載を確認することができた。

『一山総構赤羽川端通絵図』は、赤羽川沿岸における生け垣の植え直しと土手の修復のため作成された絵図面であり、赤羽川沿いに林立する山内寺院・所化寮の外周の間数と、各敷地の南端から赤羽川までの間数が記されている。酉蓮社の外周は、北辺が十三間・二十間五尺の計三十三間五尺、東辺が十六間二尺・六間の計二十二間二尺、西辺が二間二尺・二十間三尺の計二十二間五尺、南辺が十三間三尺・八間一尺・十五間二尺の計三十六間六尺であり、北西の角には門があり、東に二間二尺、南に五間、山下谷方面から伸びる往来道が境内地に食い込んでいる。また境内地の南端から赤羽川までの間数は西側で二間、東端で三間と記されている。外周は生け垣の植え直しのため、赤羽川までの間数は土手の修復のため計測されたものである。

『縁山山内図』は、本堂・方丈・山内寺院・稲荷をはじめとする建物や山林・川・池等を描いた絵図面である。南東の角地には酉蓮社の名こそ見えないが、「報恩蔵」と記された建物の正面図と、その西隣に「閲蔵亭」と記された建物の俯瞰図が描かれている。閲蔵亭は経蔵に奉納された三大蔵経を閲覧するために建築されたものであり、本来経蔵のそばにあるはずのものであるから、もしかすると閲蔵亭ではなく、酉蓮社の堂舎かもれしれない。

以上、増上寺の日鑑等の資料を使って、江戸時代における酉蓮社の歴史について見てきた。今回資料として取り上げたのはそのほとんどが翻刻本であり、増上寺にはいまだ翻刻されていない資料が数多く伝わっている。今後これら未見の日鑑等の資料を調査・解読することによって、酉蓮社の創建から江戸末期に至るまでの歴史を補足したい。

本篇では、明治大正期の酉蓮社について見てみたい。

この時期の酉蓮社に関する記録には、国立国会図書館所蔵の旧幕府引継書、増上寺所蔵の近代文書、酉蓮社所蔵の近代文書等がある。このうち酉蓮社には二系統の文書が伝わる。一つは昭和期以降の酉蓮社関連文書二冊であり、第一冊の表紙には「宗教法人関係」、第二冊の表紙には「宗教法人(芝公園)関係」と記した紙片が添付されている。もう一つは今回の全蔵調査の過程で嘉興蔵を収蔵する経箱中から発見されたものであり、仮に「経箱混入資料」と呼んでおく。経箱混入資料は、明治大正期の文書を中心に、昭和期の文書や江戸期刊写の経典を若干含む。通元院関連の文書が最も多く、酉蓮社関連の文書がこれに次ぎ、その他に増上寺の学寮の一つである止観室関連の文書・旧蔵書もある[1]。特に重要なのは、通元院・酉蓮社関連の文書のうち明治三十三年作成の『寺籍一覧表』と、大正十一年十二年作成の『住職交代届』をはじめとする諸届の控である。

  1. 以下、「『増上寺史料集』主要語句理解の手引き」(『所報』№7附巻、増上寺史料編纂所、一九八三年六月)の「二、増上寺山内機構」、『大本山増上寺史』本文編(前掲)二四四〜二五六頁による。^
  2. 所化役者は、一文字席五十僧の中から入札により二名が選出され、方丈役所に詰め、方丈の下司として一宗一山のすべての支配に当たった。^
  3. 香衣檀林は、関東十八檀林のうち鴻巣勝願寺・小金東漸寺・生実大巌寺・川越蓮馨寺・滝山大善寺・岩槻浄国寺・江戸崎大念寺・館林善導寺・結城弘経寺・本所霊山寺・下谷幡随院・深川霊巌寺の十二ヶ寺を指し、紫衣寺には讃岐法然寺・三河大樹寺・駿河宝台院・三河松応寺・三河信光明寺・三河高月院・浅草誓願寺・西久保天徳寺等がある。「『増上寺史料集』主要語句理解の手引き」(『所報』№6、増上寺史料編纂所、一九八三年三月)の「一、江戸時代の宗内機構」を参照。^
  4. 宇高良哲「増上寺日鑑解題」(佐藤良純教授古稀記念論文集刊行会編『インド文化と仏教思想の基調と展開 佐藤良純教授古稀記念論文集』(山喜房佛書林、二〇〇三年九月)所収)を参照。^
  5. 増上寺史料編纂所、一九八三年六月刊。^
  6. 宇高良哲「増上寺日鑑解題」(前掲)を参照。^
  7. 以上、宇高良哲『増上寺日鑑』第一巻(文化書院、二〇〇一年三月)所収。^
  8. 以上、宇高良哲『増上寺日鑑』第四巻(文化書院、二〇〇六年十月)所収。^
  9. 宇高良哲「増上寺日鑑解題」(前掲)を参照。^
  10. 以上、宇高良哲『増上寺日鑑』第二巻(文化書院、二〇〇二年十月)所収。^
  11. 以上、宇高良哲『増上寺日鑑』第五巻(大正大学出版会、二〇〇七年七月)所収。^
  12. 宇高良哲「増上寺日鑑解題」(前掲)を参照。^
  13. 以上、宇高良哲『増上寺日鑑』第三巻(文化書院、二〇〇五年七月)所収。^
  14. 以上、宇高良哲『増上寺日鑑』第六巻(文化書院、二〇〇八年五月)所収。^
  15. 延享四年一月から五年十二月までが一冊に綴じられているが、延享四年分は宇高良哲氏によって翻刻済みである。また延享五年は七月十二日に寛延に改元された。^
  16. 増上寺史料編纂所編、増上寺、一九七九年九月〜一九八四年三月刊。^
  17. 岩槻市役所市史編さん室、一九八一年十月刊。^
  18. 『岩槻市史』近世史料編2「浄国寺日鑑(下)」(前掲)の解説五頁を参照。^
  19. 宇高良哲「増上寺日鑑解題」(前掲)を参照。^
  20. 宇高良哲『増上寺日鑑』第三巻(前掲)「増上寺帳場日鑑四」二四五頁、同第五巻(前掲)「増上寺月番日鑑五」一一九頁を参照。^
  21. 宇高良哲『増上寺日鑑』第五巻(前掲)「増上寺月番日鑑五」二三三頁を参照。^
  22. 小島章見「徹定上人の著作論考―特に嘉永年代を中心とする壮年期の著作について―」(『仏教文化研究』第36号養鸕徹定上人特集、一九九一年九月)掲載の小島氏模写による。^
  23. 蔵司職とは、蔵司役ともいい、三大蔵経をはじめとする蔵書の整理保管・閲覧管理を司った。一文字席十一人目以下の僧で、願札を出した者の中から選出され、方丈詮議のうえ任命され、蔵司寮に勤仕した。『三縁山志』「経蔵」条によれば、文政二年当時の蔵司は静山であり、「南四谷寮主列名」図を見ると、酉蓮社の北隣にある三軒の学寮のうち真ん中の学寮に「静山」とあるから、これが蔵司寮と見られる。^
  24. 瑞潭は、幡随院第二十世の相蓮社実誉のことであり、後に光明山天徳寺和合院(東京都港区虎ノ門)に移った(『檀林下谷幡随院志』「暦世浄徳」を参照)。天徳寺は、浄土宗江戸四ヶ寺の一つであり、五代将軍綱吉の時に賜紫官寺となった。^
  25. 講釈には席役講・再役講・内講の三種類があり、学寮生の修学の場であるとともに、講師にとっても日頃の修学成果を発揮する場であった。このうち一文字席が担当するのは後二者である。再役講は、一文字席に入った者が順次に行う講義であり、講師自身が講義書を選ぶことができる。内講は、月行事を除く一文字席の三十八人が首座の大衆頭から順次行う自由な講義であり、時には月行事も行った。法問とは、問答討論の形式で宗義を深く研究する修学方法であり、方丈みずからが論主を勤める上読と、月行事が順番に法問主を勤める下読の二種類があり、「安居」と呼ばれる期間中(夏四月十五日〜六月二十九日、冬十月十五日〜十二月十五日)に行われた。法問の捌とは、あらかじめ題意を説明して、問答往復の要点を指示することで予習効果をねらったものである。『大本山増上寺史』本文編(前掲)二一八〜二二一頁を参照。^
  26. 唐・法聡『釈観無量寿仏経記』に関する研究には、坂本圭司「法聡撰『観無量寿仏経疏記』について」(『天台学報』昭和62年度天台宗教学大会記念号(通号三十)、一九八八年十月)等がある。^
  27. 法明院蔵の承保四年写本・天海蔵蔵の治承三年写本については、『第二十回大蔵会展観目録』(一九三四年九月二十二日〜二十四日、(会場)叡山文庫・叡山専修院・三井寺円満院)十五頁・七十五頁、及び藤堂恭俊「わが国に遺存する唐・宋代浄土教典籍を中心とした日中交渉の資料八種」(『鷹陵史学』第五号、一九七九年九月)を参照。^
  28. 松永知海編『『全蔵漸請千字文朱点』簿による『黄檗版大蔵経』流布の調査報告書』(佛教大学アジア宗教文化情報研究所、二〇〇八年三月)によれば、来迎寺は六回に分けて全蔵を購入している。
        明和四年九月  千四十巻四十六函両祖録一函
                九百七十巻四十函
            閏九月 千三十巻三十九函
            十月  千三十巻四十函
            十一月 千四百三十巻五十七函
         同七年三月  千四百三十巻五十三函^
  29. 宇高良哲『増上寺日鑑』第三巻(前掲)「増上寺帳場日鑑六」三一〇〜三一一頁を参照。^
  30. 金百疋は金一歩(分)にあたる。「白銀幾枚」は儀礼用・褒美用に用いられた呼称であり、白銀一枚は銀四十三匁にあたる。よって所化方が当初用意した金五百疋は金五分にあたり、これが霊妙和尚によって銀三枚つまり銀百二十九匁に改められた。寺家方三十坊が備えた金三百疋は金三分、門誉覚瑩が備えた銀一枚は銀四十三匁、所化月行事各人が備えた銀一両は銀四匁三分にあたる。^
  31. 「木村包」は、増上寺の『月番日鑑』延享三年十二月二十六日条の「歳末之御祝儀」の包み見本の下に「尤内木村包」と見え(宇高良哲『増上寺日鑑』第五巻(前掲)「増上寺月番日鑑八」四五一頁を参照)、『(月番)日鑑』寛延三年九月十八日条に「文句部十五年清光院御弟子教我入伴之為届、伴頭天陽院ゟ案内之僧相添青銅六拾四文木村包ニ而被相納之。」と見える。「木村包」とは、江戸時代に行われた包金銀の一種であろう。包金銀とは、江戸時代、一定額の金・銀貨を和紙で包装して、額面や包封者の署名・封印を施した形態の貨幣のことである。包金銀は表書きが大きな信用力をもって流通し、原則として市中では開封して内容を検めることをしない点に特徴があり、江戸の大手両替商は仲間を形成し、厳密な仲間相互間の取り決めに従って包金銀を作り、信用力の維持に努めたという。後藤包・常是包・銀座包・仲間包等がある。山口健次郎「江戸期包金銀について」(『IMES Discussion Paper』96-J-3、一九九六年三月)を参照。^
  32. 了誉聖冏の伝記には、『了誉上人行業記』(『浄土宗全書』第十七巻所収)、『聖冏禅師伝』(冏祖五百年遠忌準備局、一九一九年五月)等がある。^
  33. 五重相伝とは、浄土宗の奥義を相伝する行事であり、五重の次第を立てて相承し、五通の血脈を伝授する。五重とは機・法・解・証・信の大綱であり、初重『往生記』・二重『末代念仏授手印』・三重『領解末代念仏授手印鈔』・四重『決答授手印疑問鈔』の書伝と、第五重『往生論註』の十念の口伝によって相伝する秘儀であった。『岩波仏教辞典』(岩波書店、一九八九年十二月)二七二頁による。^
  34. 摂門『瓜連常福寺志』(『浄土宗全書』第二十巻所収)「諸末起因」による。^
  35. 酉誉聖聡ははじめ密教を学んだが、至徳二年(一三八五)に聖冏に感化されて浄土宗に改宗し、以来聖冏に師事し、明徳四年(一三九三)に真言宗の光明寺を改宗して増上寺と改名し、その開山となり、浄土宗第八祖に列せられた。^
  36. 「無為色心二光」は未詳。「色心二光」は仏身から放たれる光を二種に分けたもので、仏身から発して目に見える光明を色光といい、仏智から発して常に衆生を照らし護る光明を心光という。阿弥陀仏の無量の光明(常光)を指す場合もある。この一節は、大方丈の本尊である阿弥陀如来坐像の開帳・参拝を指すのかもしれない。^
  37. この時増上寺から奉還された旧像は現在も伝通院に伝存する。『大本山増上寺秘宝展 増上寺開山酉誉聖聡上人五五〇年遠忌記念』(大本山増上寺、一九八九年)「了誉聖冏上人木像」・「出品目録」を参照。^
  38. 後述するように、酉蓮社には昭和十七年まで了誉聖冏像が伝わっていた記録があるが、その後行方不明となっている。^
  39. 『七巻書籍』は、聖冏記『往生記投機鈔』一巻、同『授手印伝心鈔』一巻、『領解授手印徹心鈔』一巻、『決答疑問銘心鈔』二巻と、良忠述『決答授手印疑問鈔』二巻の計七巻からなる。^
  40. 『大本山増上寺史』本文編(前掲)に「一文字席中に月行事という役職階級がある。中間中ともいわれ、一文字席五十僧の上席十二名をいう。」とある(二五二頁を参照)。^
  41. 同様の記録として、元文四年十月付の「学頭及二﨟へ申渡之覚」に「一、了誉上人御影板、頌義部頭江預置候間、望之僧者無遠慮、部頭江可被相願候事。」とある。『増上寺史料集』第一巻古文書(大本山増上寺、一九八三年十二月)五四一頁を参照。^
  42. 国立国会図書館蔵、享和二年赤井長兵衛等刊本による。^
  43. 当時の三大蔵経の利用規約として、享保二十年に定められた「蔵司職務定書」が増上寺に伝わる。『増上寺史料集』第一巻古文書(前掲)五一七〜五二一頁を参照。^
  44. 田中俊孝編『雲介子関通全集』第五巻(関通上人全集刊行会、一九三七年四月)一六〇〜一六一頁を参照。同書の凡例は、『向誉上人行状聞書』十三巻について「諸伝中最も委しきものにして、門弟阿仙が筆録し、祐松筆写せしものの如し。然れば又古くして信憑すべきものなり。」と述べ、関通の伝記の中でも信頼性の高い資料であるとする。底本は「行阿蔵書」の筆写本であるとのことである。^
  45. 円輪寺は、関通のために尾張国府下朝日町に再創され、その弟子真海が住職となった寺院である。^
  46. 田中俊孝編『雲介子関通全集』第五巻(前掲)付録一七〜一九頁を参照。^
  47. 『増上寺史料集』第一巻古文書(前掲)五六六〜五六九頁を参照。^
  48. 「『増上寺史料集』主要語句理解の手引き」(前掲)の「二、増上寺山内機構」、『大本山増上寺史』本文編(前掲)二五二〜二五三頁を参照。^
  49. 『増上寺史料集』第一巻古文書(前掲)五六九〜五七〇頁を参照。^
  50. 宇高良哲『増上寺日鑑』第三巻(前掲)「増上寺帳場日鑑七」三六五頁を参照。^
  51. 『三縁山志』巻第八「法系伝由」の「学頭寮」条を参照。^
  52. 宇高良哲『増上寺日鑑』第三巻(前掲)「増上寺帳場日鑑七」三六九頁を参照。^
  53. 『増上寺史料集』第三巻山内通規(大本山増上寺、一九八二年四月)二〇四〜二〇六頁を参照。^
  54. 『増上寺史料集』第四巻規約類聚(大本山増上寺、一九八四年三月)四四〜四六頁を参照。^
  55. 雅山の弟子については、慈海・薩摩川岸の二人の名が伝わる。慈海は、『浄国寺日鑑』下冊「増上寺等日鑑六」の延享四年正月廿六日条に「雅山和尚新弟子慈海江祝儀遣ス」とある(八五五頁)。『三縁山志』巻二「堂閣建縁」の「経蔵」条に第十七代蔵司として慈海の名が見えるが、同一人物かどうかは不明。薩摩川岸は、『向誉上人行状聞書』(『雲介子関通全集』第五巻(前掲)所収)巻七「同所(東都を指す)源光寺説法貴婦人帰依の事」条に「化導助力の知識の中に、縁山の雅山上人の法弟、薩摩川岸、源光教寺に住職し給へば」とあり、雅山の法弟の一人で、源光寺の住職となったという。源光寺は、文明十二年に本芝(今の港区芝)に開創された寺院であり、明治十二年に二本榎(今の港区高輪)にあった相福寺と合併して開運山光福寺と改称され、現在に至る。^
  56. 宇高良哲『増上寺日鑑』第二巻(前掲)「増上寺日鑑四 月番日鑑」二四三頁を参照。^
  57. 宇高良哲『増上寺日鑑』第五巻(前掲)「増上寺月番日鑑五」一一三頁を参照。^
  58. 「慥」字の上に「恵城」印を捺す。^
  59. 隆善は、後の増上寺第五十世であり、宝暦九年十二月二十九日に学頭に補せられたばかりであった(『三縁山志』巻第十「歴代高徳」便誉隆善伝を参照)。^
  60. 増上寺歴代の両役者については、『大本山増上寺史』本文編(前掲)「特論I 浄土宗触頭増上寺役者譜年次考」を参照。^
  61. 宇高良哲『増上寺日鑑』第三巻(前掲)「増上寺帳場日鑑十」四八八頁を参照。^
  62. 以上、宇高良哲『増上寺日鑑』第三巻(前掲)「増上寺帳場日鑑十」四九八〜四九九頁を参照。^
  63. 「『増上寺史料集』主要語句理解の手引き」(前掲)の「一、江戸時代の宗内機構」を参照。^
  64. 以上、宇高良哲『増上寺日鑑』第三巻(前掲)「増上寺帳場日鑑十」五二二〜五二五頁を参照。^
  65. 宇高良哲『増上寺日鑑』第三巻(前掲)「増上寺帳場日鑑十」五二七頁を参照。^
  66. 「現誉大僧正」は増上寺第五十一世現誉満空、「浄運院」・「林松院」は当時の寺家役者の浄運院住職弁立・林松院住職暢誉要山、「寂信」・「在禅」は所化役者の明誉寂信(廓信に改名)・薫誉在禅のことである。『大本山増上寺史』本文編(前掲)「特論I 浄土宗触頭増上寺役者譜年次考」を参照。^
  67. 宇高良哲『増上寺日鑑』第六巻(前掲)「増上寺帳場日鑑十五」二六七〜二六九頁を参照。なお同『増上寺日鑑』第四巻(前掲)「増上寺日鑑十九」(『役所日鑑』)の天明八年九月廿九日条にもこのときの道順が記録され、廿六日条には明和六年十月の寺社奉行衆による山内見分の際の道順が参考として挙げられ、やはり報恩蔵の名が見える。^
  68. 在源は、寛政二年三月に一文字席の四十七番目に名を連ね(宇高良哲『増上寺日鑑』第四巻(前掲)「増上寺日鑑十九」の寛政二年五月八日条を参照)、のちに増上寺御霊屋別当寺院の一つ宝松院第十二世となり、文化元年六月十六日に遷化している(『三縁山志』巻三「守廟清務」の「宝松院」条を参照)。^
  69. 国立国会図書館蔵、明治十四年西円寺刊本による。^
  70. 本会『略伝集』(『浄土宗全書』第十八巻所収)「法洲和尚略伝」にもほぼ同内容の一段があるが、「十月十一日」を「十一月十一日」に誤る。^
  71. 他に、増上寺の近世文書として、寛政四年十二月に酉蓮社が総月行事宛に差し出した『添証文之事』が伝わる。酉蓮社が久留米藩第八代藩主有馬頼貴(一七四六〜一八一二)の借金の保証人となった際の添証文である。以下その全文を挙げておく。
         一 金五百両也
           右者有馬中務大輔殿江拙僧致口入被致借用候処実正也。若返済日限致
           延引候ハヽ、拙僧引請為致返済可申候。為後証仍而如件。
           寛政四子年十二月   酉蓮社 印
             惣月行事中^ 
  72. 日本の中世から近世にかけて「瀟湘八景」が受容・変貌していく様子を詩歌と絵画を中心に辿ったものに、堀川貴司著『瀟湘八景 詩歌と絵画に見る日本化の様相』(臨川書店、二〇〇二年五月)がある。^
  73. 国立国会図書館蔵、文政四年序芝神明前和泉屋新八刊本。^
  74. 『仏教文化研究』第36号養鸕徹定上人特集(前掲)五二頁を参照。^

中篇 明治大正期の酉蓮社

本篇では、明治大正期の酉蓮社について見てみたい。

この時期の酉蓮社に関する記録には、国立国会図書館所蔵の旧幕府引継書、増上寺所蔵の近代文書、酉蓮社所蔵の近代文書等がある。このうち酉蓮社には二系統の文書が伝わる。一つは昭和期以降の酉蓮社関連文書二冊であり、第一冊の表紙には「宗教法人関係」、第二冊の表紙には「宗教法人(芝公園)関係」と記した紙片が添付されている。もう一つは今回の全蔵調査の過程で嘉興蔵を収蔵する経箱中から発見されたものであり、仮に「経箱混入資料」と呼んでおく。経箱混入資料は、明治大正期の文書を中心に、昭和期の文書や江戸期刊写の経典を若干含む。通元院関連の文書が最も多く、酉蓮社関連の文書がこれに次ぎ、その他に増上寺の学寮の一つである止観室関連の文書・旧蔵書もある[1]。特に重要なのは、通元院・酉蓮社関連の文書のうち明治三十三年作成の『寺籍一覧表』と、大正十一年十二年作成の『住職交代届』をはじめとする諸届の控である。

1 明治期

明治期の酉蓮社に関する主な資料には、次のものがある。

『諸宗作事図帳』 国立国会図書館蔵

『増上寺地中酉蓮社什物帳』 増上寺蔵

『浄土宗寺院明細簿』 増上寺蔵

『芝公園地内へ仮橋掛願』 『平成新修福田行誡上人全集』第六巻公文書篇・補遺篇所収

『敷地使用換願』 増上寺蔵

『寺籍一覧表』(酉蓮社分) 酉蓮社蔵の経箱混入資料

以下、これらの資料を中心に、明治期の酉蓮社の状況について考察してみたい。

『諸宗作事図帳』

本資料は、天保十二年に寺社奉行松平伊賀守が建築審査・認可手続きを省力化・効率化するために発案し、江戸御府内の各宗寺院に当時の境内地の作事図つまり絵図面を提出させたものである。慶応四年五月に寺社・町・勘定三奉行所の諸記録が旧幕府引継書として維新政府を経て東京府に引き渡されたといわれ、その際『諸宗作事図帳』も維新政府あるいは東京府に引き渡され、神仏分離や寺社境内地の上知の資料として使われた可能性が指摘されている[2]

その増上寺部分は、明治維新後の明治二年一月に東京府からの通達に従い調査・提出されたものであり、当時の本坊・子院・学寮等計百三十六件の境内作事図を、第五棚百二十九・百三十の二冊に「増上寺本坊并学寮塔頭作事絵図面」[3]の名で収録する[4]。明治維新後に作成されたものであるとはいえ、明治政府による上知等の影響を受ける以前のものであるため、江戸末期の増上寺山内の様子を伝える資料として非常に貴重である。近年デジタル画像化され、同館ホームページの「国立国会図書館デジタル化資料」(http://dl.ndl.go.jp/)において全文カラー画像で閲覧できるようになった。

その内容構成を見ると、まず増上寺の総坪数・山内全図・本坊の作事図を挙げ、以下、源流院を皮切りに、地区ごとに子院・学寮の作事図を挙げる。一軒につき二丁を使い、第一丁表に坪数、子院・学寮の名称、境内地の間口・奥行等の間数を記し、第一丁裏から第二丁表に作事図を記し、第二丁裏に「右之通相違無御座候以上/明治二巳年正月 源流院」といった形式で各子院・学寮の署名がある。

酉蓮社は『諸宗作事図帳』第五棚百三十の第六十七・六十八丁に収録される。第六十七丁表に次のようにある。

惣坪数九百六拾五坪     酉蓮社

表間口   弐拾五間

奥行    三拾七間

裏幅    弐拾五間

添地    幅三間四尺 奥行二拾一間

第六十七丁裏から第六十八丁表には作事図が描かれ(図版【10】)、第六十八丁には「右之通相違無御座候以上/明治二巳年正月 酉蓮社」と記されている。

当時の酉蓮社は、開創以来の地、増上寺山内の南東の角に、表間口二十五間(裏幅同じ)・奥行三十七間、それと幅三間四尺・奥行二十一間の添地[5]からなる九百六十五坪の境内地に、庫裡・土蔵・物置二棟・表門・冏師堂を有し、境内地の外周に生け垣をめぐらせていた。

庫裡は梁間七間・桁行十間半の座敷を中心に、東に仏間、北に台所、西に二間の下家を配す。下家とは下屋(母屋につけ足した葺きおろしの小屋)のことであろう。表門は西隣の瑞善院と学寮の間を通る往来道が酉蓮社の境内地の北西の角にやや入り込んだ地点にあり、高さ一丈一尺・明七尺一寸の屋根付きの門が記され、この門の右脇に寄り添うように「濽」と記されたやや小さめの屋根つきの門が記されている[6]。北東の角には物置(二間半・四間半・高さ二間半)と土蔵(五間・三間)を配し、北西の角付近にもう一棟の物置(二間・二間半)を配す。なお生け垣は北東の物置を迂回するように、もしくは囲むようにめぐらされている。

冏師堂は庫裡の東側、境内地全体の南東寄りに位置し、幅二間・奥行一間の北向きの向拝を備え、五間四方の塗家造りとなっている。塗家とは防火のために外壁を土や漆喰等で厚く塗り込んで造った家屋のことである。冏師堂と庫裡の間、及び冏師堂と敷地北側の生け垣の間には、それぞれ三間と十間の板塀がめぐらされている。板塀の向こう側は北東の角に土蔵があるのを除いて空き地となっており、小規模ながら火除け地の役割を担っていたようである。

前篇の「摂門の見た酉蓮社」で摂門『檀林巡路記』の記述を挙げたが、その中で報恩蔵が「了誉上人堂」と記されていることに言及した。この作事図に記される冏師堂も了誉聖冏像を祀ったお堂であることは間違いないから、了誉上人堂、つまり報恩蔵のことを指すと考えてよかろう。本尊たる了誉聖冏像を祀り、酉蓮社創建のきっかけとなった嘉興蔵を納める重要な建築物であったが故に、赤羽川(現在の古川)と桜川に挟まれた境内地の南東に、塗家造りで建築され、かつ板塀による仕切りを設け、板塀の向こうは火除けの空き地にする等、火災による類焼を防ぐ工夫が幾重にも施されたものと考えられる。酉蓮社は江戸時代に山内で発生した火災によって数度焼失しているため、『諸宗作事図帳』に記された酉蓮社の報恩蔵・庫裡が創建当時のものであるとは考えがたいが、江戸末期の酉蓮社境内の様子を伝える貴重な資料であることは間違いない。

なお図版【11】「明治2年1月当時の南四谷」は、『諸宗作事図帳』所収の増上寺の塔頭・学寮の作事図をもとに、明治二年当時の酉蓮社とその周辺の子院・学寮の位置関係を復元したものである。

『諸宗作事図帳』よりやや後の山内の建築物を描いた絵図に『増上寺地中明細総絵図』(四枚、彩色絵図、増上寺蔵)がある。本図では、本坊のあった場所が「開拓使」と記され、本堂の西側にあった真乗院が「増上寺」と記され、神明谷の清光院が存続しているから、増上寺本坊に開拓使東京出張所が置かれた明治四年以降、清光院が北海道から募集した地元民の宿舎として買い上げられた明治五年十月以前の絵図と見られる[7]

『増上寺地中明細総絵図』の二枚目には南四谷が描かれている(図版【12】)。これを見ると、酉蓮社は『諸宗作事図帳』当時の境内地の西半分に減少しており、その中央に「十三番 甲/酉蓮社/四百拾一坪」とあり、外周は北辺十九間六合、東辺二十間九合、西辺十七間・三間二合(門部分)の計二十間二合、南辺二十間四合からなる。東半分は「十三番 乙/水車/四百九拾六坪五合六勺」とあり、水車があったことになっている。酉蓮社の境内地に水車が作られたという記録は今のところ見つかっておらず、なおかつ本図には建物の絵図が描かれていないため、水車がどのような規模のもので、赤羽川と桜川のどちらに設置されていたのかもわからないが、明治初めにおける境内地活用の一例として興味深い。

明治政府は、明治二年六月に版籍奉還、同六年七月に地租改正を行い、寺社領の解体を推し進めた。その趨勢の中で、明治四年一月・八年六月の二回に渡り、太政官布告[8]を発令して、全国の寺社境内地に対して大規模な上知、つまり知行地の召し上げを行った[9]。増上寺も多くの境内地が召し上げられ、さらに明治五年二月に銀座大火が発生して以後は、袋谷・中谷・天神谷・北谷が海軍省の属舎等として接収され[10]、酉蓮社も甚大な影響を蒙ることとなった。やや後の資料であるが、明治三十一年二月に酉蓮社が増上寺総務宛に差し出した『敷地使用換願』に次のようにある。

明治四年中、増上寺一山学寮過半ハ海軍省ヘ御用引上ニ相成、無拠一部ノ学徒ヲ同社庫裡ヘ引移シ教養致候。故表門ニ学寮ノ主ノ標札ヲ掲ケタル所ヨリ遂ニ学寮ト変更シタルモ、元来寺院トシテハ本堂庫裡表門等具備セサレハ、寺院ノ用ヲナサス。

明治四年に増上寺山内の学寮の大半が海軍省に接収され、行き場を失った学徒の一部を酉蓮社の庫裡で引き取ることになったが、酉蓮社の表門に学寮主の表札が掲げられたため、いつしか酉蓮社の庫裡は学寮に変更となり、酉蓮社は本堂・庫裡・表門を具備しない寺院となってしまったという。つまり酉蓮社自身が土地を接収された訳ではなかったが、上知や海軍による学寮の接収によって住処を追われた各谷の学僧を酉蓮社に受け入れるうちに庫裡の学寮化が進み、その境内地を大幅に減少させることになったのである。

『増上寺地中酉蓮社什物帳』

本資料は、明治六年十一月五日、酉蓮社が作成し、東京府第二大区三五小区戸長の検査を受けた什物帳である。表紙には「什物帳」・「増上寺地中/酉蓮社」とあり、本文は「第二大区小五区/芝増上寺山内/酉蓮社」で始まり、続いて什物が列挙される。什物の一件目に次のようにある。

一冏師堂 壱カ所 弐拾五坪

冏師堂は報恩蔵のことであり、二十五坪は五間四方の坪数であるから、明治二年一月の『作事図帳』当時の建物がそのまま伝わっていたと考えられる。続いて阿弥陀如来像等の什物を列挙し[11]、「右之通前来什物ニ相違無之所也」と結んだ後、「明治六年十一月十五日/酉蓮社無住ニ付/代 徳存印/法類 密円印」の署名・捺印があり、さらに「前件検査候也/(割印)拾号 戸長 秋本政冨印/同 植田弥右衛門印」の署名・捺印がある。また裏表紙の仮綴じ部分にかかるように「第二大区/三五小区/戸長之印」が二カ所に捺されて封印してある。「第二大区三五小区」とは、明治五年十月に施行された大区小区制に基づく地方行政単位である[12]。大区小区制では、府県の下に大区を置き、大区の下に小区を置き、大区には区長・副区長、小区には戸長・副戸長を置いており、増上寺境内地は東京府第二大区第五小区にあった。

当時の酉蓮社の住職は、『什物帳』に「酉蓮社無住ニ付/代 徳存印」とあるように、空席となっていた。代理として署名した徳存は、『諸宗作事図帳』によれば、明治二年一月当時、北谷の三島谷に二百三十一坪の学寮を持っていた[13]。『作事図帳』によって当時の北谷の学寮配置を復元すると、徳存寮は文政二年当時の大笈寮(進徳亭・無邪窟)の位置に当たる(図版【13】)。明治五年二月の銀座大火以後、北谷は海軍省によって属舎として購入され、北谷の学徒等はまだ学寮の残っていた新谷・山下谷に移ったとのことであるから[14]、徳存とその法類密円は海軍省の増上寺進出により三島谷を追われ、酉蓮社の庫裡に移り住んでいたものと考えられる。その証拠に国立国会図書館所蔵の『増上寺絵図』では、北谷は海軍省属舍(朱点で示す)、新谷の酉蓮社のある部分は「徳存寮」となっている(図版【14】)。『増上寺絵図』は旧幕府引継書の一つであるが、明治二年一月作成の『諸宗作事図帳』以後の増上寺山内の状況を描いたものであり、その作成時期は『什物帳』とほぼ同時期と考えてよかろう。本図によれば、徳存寮は「千七坪五合六勺」とあり、そのちょうど北側真ん中部分に長方形の寺地が描かれている。これが当時の酉蓮社の境内地であろう。

『浄土宗寺院明細簿』

本資料は、明治十年から翌年四月にかけて増上寺が東京府に提出するために作成した書類の控えであり、増上寺及びその子院等の境内図・本末・草創・開基・開山・境内の坪数・本堂の建築様式・本尊・什物等が記され、『什物帳』と同じく大区小区別に作成された。酉蓮社は「東京府下第貳大区甲」に収載され、第一丁の表に「芝公園内酉蓮社図 境内百三十壱坪」として酉蓮社の境内図が描かれ(図版【15】)、その裏から本文が始まる。

本山 当所 増上寺末 東京府下武蔵国豊島郡芝公園地中 浄土宗 酉蓮社

一 草創 寛延二巳年七月

一 開基 宝歴九卯年六月河村伝右衛門

一 開山 練誉雅山 履歴未詳

一 境内 百三拾壱坪 但公園地中

一 宝形造堂 拾二坪二合五勺 但瓦葺

一 本尊阿弥陀仏 壱躯 但木像

一 円光大師 仝 但木像厨子入

一 了誉聖冏 壱躰 但同上[15] 

最後に「右之通相違無之候也」と結んだ後、「明治十年十二月 右酉蓮社看主学寮主 河野密円印/同法類 同所学寮主藤井慈道印/本山 増上寺住職 大教正石井大宣印/第二大区五小区 戸長 兼房重任」の署名・捺印がある。

河野密円は、『什物帳』で徳存の法類として見えるのをはじめ、明治期の酉蓮社・通元院を管理運営していた人物として散見する。『明細簿』と同じ明治十年十二月に作成された『一山建屋坪数調絵図』(一枚、彩色絵図、増上寺蔵、図版【16】)、及び明治二十年に内務省地理局が作成した『東京実測図』では、いずれも酉蓮社の庫裡に当たる部分が「密円寮」となっており(図版【18】)[16]、密円が徳存の後を継いで学寮主となっていたことを確認できる。明治二十二年遷化[17]。藤井慈道は、戒蓮社孝誉上人心阿清浄慈道大和尚[18]、明治二十九年当時如来寺住職[19]。河野密円・藤井慈道は、徳存がそうであったように、海軍に追われて酉蓮社の庫裡に移ってきた北谷の修学僧であったと見られる。

明治六年一月十五日、太政官布告第十六号「公園設置ニ付地所選択ノ件」の通達を受けて、東京府は金竜山浅草寺・東叡山寛永寺・三縁山増上寺・富岡八幡宮・王子権現の五箇所を候補地として上申し、三月二十五日にそれぞれ浅草公園・上野公園・芝公園・深川公園・飛鳥山公園の五公園とすることを決定し、増上寺は「万人偕楽ノ場」として市民に開放されることになった。『明細簿』に「芝公園内酉蓮社図」・「東京府下武蔵国豊島郡芝公園地中」とあるのはそのためである。

当時の酉蓮社は十三間一合・十間、百三十一坪の長方形の境内地を有し、その南東の隅に三間半四方の本堂を構え[20]、本堂は瓦葺きの宝形造で十二坪二合五勺あった。また阿弥陀仏の木像一躯、円光大師・了誉聖冏の木像各一躯(厨子入)等を有していたが、本尊は了誉聖冏像ではなく、阿弥陀仏像となっている。なお嘉興蔵は記載されていない。

本堂(報恩蔵)の建坪は、『諸宗作事図帳』・『什物帳』の五間四方二十五坪から、三間半四方十二坪二合五勺に半減している。先述のように、明治四・五年頃より酉蓮社の境内地の東半分は一時水車用地とされていた。その関係で、明治六年十一月から同十年十二月までの間に本堂が西よりに建て替えられたものと推測される。

境内地は、『諸宗作事図帳』の九百六十五坪から約七分の一に減っている。これは、一つには本堂と同様、境内地の東半分が水車用地に取られたためであり、もう一つにはこの境内図が酉蓮社の庫裡を含まず、本堂周辺のみを記したものであるからである。庫裡を含めなかったのは、北谷から移ってきた学徒の学寮として使われ、それが既成事実化していたからであると考えられる。

興味深いのは、草創を「寛延二巳年七月」、開基を「宝歴九卯年六月河村伝右衛門」とする点である。嘉興蔵を収める経箱の側板には「寛延二龍集己巳初冬」・「縁山報恩蔵経函」と墨書されていることから、嘉興蔵が増上寺に奉納されたのは寛延二年十月であったと考えられる。これに対し、『明細簿』の記す草創年はさらに三ヶ月も早い。現存の諸記録からはその根拠を知り得ないが、あるいは当時の酉蓮社には寛延二年七月草創で、宝暦九年六月河村伝右衛門開基であることを示す資料が伝わっていたのかもしれない。

『芝公園地内へ仮橋掛願』

本資料は、『平成新修福田行誡上人全集』第六巻公文書篇・補遺篇に「三七、増上寺住職福田行誡より学寮舎敷地の儀に付願」として影印収録されている[21]

一当時学寮敷地内三十四号寮舎建設之儀、本年七月中御届済方今粗落成候処、出入通行筋総テ隣地内へ地続ニシテ出入運搬等不弁理ニ付、桜川上へ〈竪二間半/横五尺〉仮橋取設、自寮出入ノ者ノミ通行候様致度、別紙絵図面相添、此段相願候也。

明治十六年十二月十一日 

芝公園地 増上寺住職 大教正福田行誡印

東京府知事芳川顕正殿

前書出願ニ付奥印候也

東京府芝区長梅田義信印  

願書に続いて影印される「別紙絵図面」では、赤羽川と桜川が合流する角地の敷地、つまり旧酉蓮社境内地の真ん中に建屋を表す四角い枠が描かれ、その枠内に「学舎建設」とあり、この学舎から片門通へ渡るための仮設橋が描かれている。

本資料により、明治十六年七月、増上寺は旧酉蓮社境内地に学寮舎を建築する旨届け出を行い、十二月頃にほぼ完成していたことがわかる。「出入運搬等に不弁理」な隣地とは、西隣の酉蓮社と、北隣の学寮群を指すと考えられる。明治十七年七月に参謀本部陸軍部測量局で作成された「東京府武蔵国芝区芝公園地近傍」図(図版【17】)を見ると、かつての酉蓮社の敷地の東の一角が境界線で囲われ、その中心に建物があり、その前を流れる桜川には片門通へ渡るための橋が架かっている[22]。これが『芝公園地内へ仮橋掛願』に見える学寮舎と仮橋であると見られる。この場所は、明治四・五年頃に一時水車用地とされたが、明治政府による上知や海軍の増上寺進出で行き場を失った北谷の修学僧を受け入れるため、学寮を建設することにしたのであろう。

政府による上知や海軍の増上寺進出は、酉蓮社の運営に大きな影響を与えたと考えられるが、それとともに酉蓮社を取り巻く環境を大きく変化させたのが旧酉蓮社境内地への通元院の移転である。

通元院は、宝永六年に清揚院廟の別当として本堂後方の観音山の西側に建立されたが、御霊屋の防火対策として、文化十年、さらに西の能勢・滝川の屋敷跡地に移転した[23]。明治二十年八月一日、東京府は芝公園内にあった東京府集会所の地所を拡張するため、通元院の建物と庭園を買収し、併せて敷地内の観音堂(瘡守稲荷社)・薬師堂の移転料を通元院に支払った[24]。当時の通元院住職は十九代禅誉密円[25]、すなわち河野密円である。これにより、通元院は瘡守稲荷社とともに旧酉蓮社境内地の東半分にあたる敷地に移転し、小田原から不動堂を買い取って本堂とした[26]。これを反映して、明治三十年頃作成の『芝公園地現今調整之図』では、増上寺山内の東南の角地を、西に酉蓮社(第十四号地十七番)、東に通元院(第十四号地十六番)が二分した形で描かれている[27]

旧酉蓮社境内地の東半分は、明治四・五年頃、一時水車用地とされたが(図版【12】)、明治十年十二月作成の『一山建屋坪数調絵図』では空欄となっており(図版【16】)、明治十六年には増上寺の主導で学舎が建設された。このことからもわかるように、かつての酉蓮社の境内地とはいうものの、明治維新後、早々に酉蓮社の手を離れていたと考えられる。

『敷地使用換願』

本資料は、明治三十一年二月に東京市参事会・東京府知事宛に提出した敷地用途の変更願である。すでに一部引用したが、以下にその全文を挙げる。

敷地使用換願

芝公園第拾四号拾七番

一敷地四百貳拾五坪七合七勺 現今学寮敷地ト称スル分

一敷地百参拾壱坪 現今酉蓮社敷地

右ハ去ル一月中、前記四百貳拾五坪七合七勺ノ地ヲ酉蓮社敷地ニ使用換出願仕候処、敷地ノ性質変更ノ儀ハ御許可難相成旨附箋却下相成候得共、元来本社ハ同処ニ於テ壱千余坪ノ地ヲ境内敷地トシテ、寛延年中、大本山増上寺大僧正走誉上人開基草創已来、壱個寺院ノ資格ヲ以テ聯綿相続仕来候。然ルニ明治四年中、増上寺一山学寮過半ハ海軍省ヘ御用引上ニ相成、無拠一部ノ学徒ヲ同社庫裡ヘ引移シ教養致候。故表門ニ学寮ノ主ノ標札ヲ掲ケタル所ヨリ遂ニ学寮ト変更シタルモ、元来寺院トシテハ本堂庫裡表門等具備セサレハ、寺院ノ用ヲナサス。就テ学寮外ニ同社附属必要ノ建物ヲ新築致度候ヘ共、旧境内敷地壱千坪ノ内漸々他ノ使用地ニ相成、現今該社敷地ハ前記ノ如ク百参拾壱坪ニ減シタルヲ以テ建築ノ余地無之ニ依テ、学寮関係者ニ協儀ヲ遂ケ元庫裡敷地ニ有之候現今建物ノ寄附ヲ受ケ、明細帳御記入許可ヲ得タル次第ニ御座候間、実地御検分ノ上、前記四百貳拾五坪七合七勺ヲ本社敷地ニ御許可被成下度、別紙受寄附許可指令写并ニ地図相添ヘ、一同連署ヲ以テ此段奉願上候也。

明治三十一年二月 日

当時、酉蓮社のあった芝公園第十四号十七番の敷地は、酉蓮社の境内地百三十一坪と、明治四年に北谷の学徒を受け入れたことで学寮の敷地となっていた四百二十五坪七合七勺とに二分されていた。酉蓮社は創建以来一個の寺院として続いてきたが、庫裡と表門が学寮の所有となってしまったため、本堂・庫裡・表門等、寺院が本来備えるべき建物を有していなかったばかりか、新築するための敷地すらなかった。そこで同年一月に学寮主と相談の上、学寮の敷地を酉蓮社の境内地に変更する請願書を提出したが敷地用途の変更は認められないとの理由で却下された。そこで学寮の敷地が本来酉蓮社の境内地であったことを強調して作り直し、再度提出したのが本請願書である。

請願書の末尾には関係者一同の連署があり、その筆頭には酉蓮社管理として不染信翁が署名・捺印し、続いて信徒総代として川村朝治郎・秦誠音・石川鴻斎、学寮主として秦誠音、組寺総代として清光寺住職樹下隆信が署名・捺印している。

不染信翁は、徳蓮社全誉上人道阿徹成信翁老和尚[28]、明治二十年三十年代に光円寺(小石川)住職[29]、通元院第二十代住職を歴任し、さらに明治三十三年には酉蓮社住職を兼務するようになっていた(後述)。通元院の先代住職は『明細簿』に酉蓮社看主として見える河野密円であり、密円が明治二十二年に遷化した後、不染信翁が通元院の住職をする傍ら、酉蓮社の管理を担ってきた。光円寺現住職佐藤良純師によれば、増上寺関係者ではなく、光円寺住職として多くの子弟を養成し、龍原寺(三田)・玉蓮院(橋場)と法類関係にあったとのことである。明治三十五年刊行の『浄土宗寺院名鑑』では、第一大教区芝小教区「通元院」条に「少僧都不染信翁」、同「酉蓮社」条・豊島小教区「光円寺」条に「(兼)不染信翁」とあり、通元院を本務住職、酉蓮社・光円寺を兼務住職とする[30]。明治四十年に出版が開始された『浄土宗全書』の編纂では、第七巻選択立宗所収の『評摧邪論』の底本に不染信翁の蔵書が用いられている[31]。また酉蓮社蔵の経箱混入資料『酉蓮社開山冏師五百回遠忌 回向料斎料配施史』に「全誉上人七回忌」とある。了誉聖冏の五百回遠忌は大正八年に当たるから、大正二年に遷化したことがわかる。編著に『従明治三十四年至明治三十五年 浄土宗高等学院専門学院要覧』があり、これによれば、明治三十五年七月当時、権大僧都となり、浄土宗高等学院(小石川区表町)の幹事に就いていた[32]。子に日本画家の不染鉄(一八九一~一九七六。本名哲治、のち哲爾)がおり、昭和二十一年十一月に南都正強中学校(現在の奈良大学附属高等学校)第二代校長に就任している。

石川鴻斎(一八三三~一九一八)は、幕末大正期の儒者。三河豊橋の出身で、名英・英助、字君華、鴻斎・芝山外史・雪泥居士と号し、西岡翠園に師事し、詩・文・書・画に優れた[33]。明治十年、増上寺に浄土宗学校が開校されると漢学の教師に就任した[34]

秦誠音は信徒総代・学寮主の二箇所に署名するが、その住所は前者が芝区公園地十四号地十七番、後者が同十六番となっている。本請願書は酉蓮社と学寮主との協議のもと作成されたものであるから、少なくとも酉蓮社住職・信徒総代・学寮主の署名が必要である。よって秦誠音は、信徒総代として以外に、旧酉蓮社の敷地四百二十五坪余を所有する学寮主として敷地の交換に同意したことを証するために署名したはずである。芝区公園地十四号地十六番は当時通元院の境内地となっていたから、学寮主としての住所「十六番」は「十七番」の誤りと考えてよかろう。その証拠に、やや古い資料であるが、明治十七年七月参謀本部陸軍部測量局作成の「東京府武蔵国芝区芝公園地近傍」(図版【17】)を見ると、酉蓮社の庫裡が「秦誠寺」と記されている。「秦誠寺」とあるのは、陸軍部測量局が秦誠音の学寮を寺院と見誤ったのであろう。

秦誠音の名は、酉蓮社蔵の経箱混入資料にしばしば見える。その一つ『相続講懸金受取之証』(明治二十八年十一月二日付)には受取証の発行先として「止観室秦誠音殿」と記されている。止観室は、『三縁山志』巻八「法系伝由」によれば、玄蓮社臻誉密厳の高弟徳厳の請願により、北谷の神明谷に設けられた学寮であり、『三縁山志』巻第十一「九谷」条「北谷の図」に「密賢」(止観室第六代寮主)とあるのがこれにあたる。つまり秦誠音は北谷の神明谷から酉蓮社の庫裡に移り住んだ止観室の修学僧であったのである[35]。精蓮社悃誉上人進阿密道誠音大和尚[36]。明治三十六年遷化[37]

本請願書は、東京市参事会、東京府知事子爵岡部長職宛に提出されている。東京市参事会とは、明治二十一年制定の市制に従い、各市に設置された市参事会の一つである。通常、市参事会は市長・助役・名誉職参事会員の三名から構成されていたが、明治二十二年三月制定の特例により、東京・京都・大阪三市には市長と助役を置かず、市長の職務は府知事が、助役の職務は書記官が行った。そのため東京市参事会では東京府知事が市長の職務を行ったのである。

本文に「別紙受寄附許可指令写并ニ地図相添ヘ」とあることから、本請願書には添付書類が二点あったことが知られるが、「受寄附許可指令」の写しは伝わらず、「地図」のみが添付されている(図版【19】)。この地図によれば、境内地の南側に三間・二十四間一合の「土提地」があり、その北に「元学寮敷地」と「酉蓮社敷地」がL字型に組み合わさるような形で存在し、「酉蓮社敷地」のL字型の末端は『諸宗作事図帳』で表門がある辺りまで伸びている[38]

東京市参事会に再提出された『敷地使用換願』が認可されたか否かは、次に挙げる『寺籍一覧表』によって知ることができる。

『寺籍一覧表』

本資料は、浄土宗務所が作成・頒布したものであり、所定の様式で印刷された用紙一枚に各寺院が記入する形になっている。その記入項目は教区、寺格等級、寺号、本尊、末寺数・所轄寺数、檀徒、信徒、境内地坪数、建物総坪数、本堂、庫裡、書院、仏堂、由緒、納金、納穀、田地、畑地、宅地、鐘楼堂、経蔵、門、倉庫、門番所、茶所、納屋、水屋、雑種建物、山林、雑種地、貸家、貸地、祠堂金、保存金、異動からなる[39]。また『寺籍一覧表』には、「財産目録」・「什具目録」・作事図がいずれも手書きで添付されている。

まず『寺籍一覧表』から見てみたい。太字は用紙に印刷された項目を示す。

教区 第一大教区芝小教区、寺格等級 十九等

寺号 東京府武蔵国東京市芝区公園地十四号 酉蓮社

本尊 了誉聖冏上人

信徒 戸数三戸、人員三人

境内地坪数 官有地 公園地 百三十一坪 四百拾九坪三 合九勺

建物総坪数 百拾七坪三合八勺

庫裡 九拾七坪一合三勺

仏堂 拾貳坪二合五勺

由緒 寛延年中、練誉雅山和尚、道俗有志ヲ募リ、増上寺 学徒ノ閲蔵ニ便ナラシメン為メニ、一切経ヲ購求シ、経 蔵ヲ建テ、称シテ酉蓮社ト号ス。

納金 年額金弐円五拾銭

 三坪

納屋 五坪

「財産目録」は、仏像・宝物・什具・地所・建物・什金・雑種の五類からなる[40]。第一類仏像に次のようにある。

一本尊了誉聖冏上人座像 壱躯

厨子入。厨子高サ五尺幅三尺五寸。木製。御丈壱尺五 寸。台座五座高サ貳尺七寸。作者未詳。

一宗祖大師木像 壱躯

厨子入。厨子高貳尺五寸幅壱尺七寸。木製。御丈壱尺。台座五座高サ壱尺。作者未詳。

『浄土宗寺院明細簿』では阿弥陀像が本尊となっていたが、ここでは阿弥陀像は記されず、再び了誉聖冏像が本尊となっている。また了誉聖冏像が座像であったことや、その寸法が事細かに記されており、今は無き了誉聖冏像の姿を彷彿とさせる貴重な資料である。これによれば、了誉聖冏像は、作者不明の座像で、高さ百五十一・五センチ、幅百六・一センチの厨子に安置され、像の高さは四十五・四五センチあり、台座は高さ八十一・八二センチであった。

第三類什具の筆頭に「一大蔵経(少々欠本アリ) 全部百箱」とある。現在伝わるのは百十一箱であり、第百十一箱の側板に「都合百十一函」と墨書されていることから、もともと全百十一箱であったことがわかる。「財産目録」に「全部百箱」とあるのは単にその概数を挙げたにすぎない。また当時すでに欠本が確認されていた。

第四類地所に「一境内地 公園地 百三拾壱坪。一同 公園地 四百拾九坪三合九勺 但旧学寮敷地使用。」とあり、境内地は百三十一坪と四百十九坪三合九勺に二分され、後者はもと学寮の敷地に使われていたという。酉蓮社は、先述したように、明治三十一年二月に東京府知事に『敷地使用換願』を提出し、止観室秦誠音の学寮四百二十五坪七合七勺を酉蓮社に寄付することを認可するよう申請していたが、ここに「旧学寮敷地使用」の境内地四百十九坪三合九勺とあることから、『敷地使用換願』がおおむね認可されていたことを確認できる。

第五類建物に次のようにある。

一経蔵兼仏殿 瓦葺木造土蔵造 間口三間半、奥行三間半拾貳坪二合五勺

一庫裡 木造瓦葺 九拾七坪一合三勺

一物置 木造瓦葺 間口貳間半、奥行貳間 五坪

一表門 木造瓦葺 間口三間、奥行一間 三坪

経蔵兼仏殿は、酉蓮社の本堂である報恩蔵のことを指し、瓦葺きで三間半四方、十二坪二合五勺とある。これは『明細簿』と一致するから、報恩蔵は明治十年十二月当時のままであったと見てよい。

第七類雑種に「一信徒施入金 年額金貳円五拾銭」とある。年額二円五十銭は現在の三万円程度に相当し、当時白米を二十キロも買えばなくなってしまう程度の収入であり、酉蓮社自身にはほとんど運営資金がなかったことがわかる。それ故に通元院住職が酉蓮社住職を兼務することで、その運営を支えていたと推測される。

次に「右之通相違無之候也。」とあり、明治三十三年付けで作成者「酉蓮社兼住職 不染信翁印/信徒総代 川村朝治郎印/仝 石川鴻斎印/仝 秦誠音印」の署名・捺印が続き、末には受領者「大本山増上寺住職代理 石井大静印/芝教務支所長 藤井洞雲印」の署名・捺印がある。

「酉蓮社什具目録」の作成者は「財産目録」と同じであり、受領者は記されていない。目録本文は省略する。

作事図は、まず「東京市芝区公園地第拾四号拾七番 酉蓮社/境内百三拾壱坪/同 四百拾九坪三合九勺/(図画ハ三分一間)」と記した後、酉蓮社の平面図が丁の表裏に渡って描かれている(図版【20】)。敷地の南を川(赤羽川)が流れ、東隣には通元院、通元院の北側に真乗院があり、かつて瑞善院があった西隣は「元静恩寮敷地」となっており、北辺には下水が描かれている。庫裡の平面図は、明治十七年七月参謀本部陸軍部測量局作成の「東京府武蔵国芝区芝公園地近傍」図に見える「秦誠寺」(秦誠音寮のこと。酉蓮社の庫裡、図版【17】)と同じ形状であり、明治十七年七月当時と変わりなかったと考えられる[41]

酉蓮社には明治三十三年に作成された通元院の『寺籍一覧表』も伝わっている。これによれば、当時の通元院は、寺格等級十二等、本尊阿弥陀如来、境内地官有地二百四十三坪、建物の総坪数四十七坪五合、門三坪となっている。建物の内訳は庫裡が三十一坪五合、観音堂(本尊瘡守観音菩薩像)が一坪、土蔵が十五坪である。『寺籍一覧表』の後には、酉蓮社分と同様、「財産目録」・「什具目録」・作事図が添付され、「財産目録」の末には通元院住職不染信翁等の署名・捺印がある。作事図には南側に赤羽川、東側に桜川が流れ、南北各十三間半、東西各十八間の境内地に、北に十五坪の土蔵、中央に木造瓦屋三十一坪五合の庫裡、南に木造瓦葺き一坪半の堂が並んでいる(図版【21】)。酉蓮社の作事図とつなぎ合わせると、ちょうど通元院・酉蓮社双方の庫裡の間に報恩蔵が建っていたことがわかる。

2 大正期

大正期の酉蓮社の状況を伝える資料には、経箱に混入していた酉蓮社・通元院関連の近代文書がある。まず酉蓮社関連の諸届について概説する。

『住職交代届』

本資料は、酉蓮社新住職野口広信が大正十一年六月十三日に芝区長に提出した住職交代届の控えである。前兼務住職樋口便孝の死亡により、大正十年九月五日に野口広信が新住職に任命された。信徒総代として吉川沢誠・佐藤良海・前田励成の署名があり、上欄外に「六月十四日区役所受理」と朱書され、題下には社寺係へ提出したことが注記されている。酉蓮社住職野口広信の署名の下には、明治期の文書で不染信翁が用いていた「信/翁」印が捺されているが、両者は同一人物ではなく、単に野口広信が不染信翁の印を襲用していたにすぎない。前兼務住職樋口便孝は、善蓮社立誉上人方阿顕道便孝大和尚[42]、通元院と酉蓮社の住職を兼務していた。信徒総代吉川沢誠は旧増上寺御霊屋別当寺院の最勝院住職、前田励成は龍原寺(三田)住職である[43]。佐藤良海は、不染信翁の弟子の一人であり、大正二年に不染信翁が遷化したのを受けて、大正三年三月に光円寺住職に就任した[44]

『信徒総代改選届』

本資料は、大正十一年六月十三日に酉蓮社住職野口広信と信徒総代吉川沢誠・佐藤良海・前田励成が連名で芝区長に提出した信徒総代改選届の控えであり、前信徒総代の石川鴻斎の死亡に伴い、信徒総代の改選を行い、佐藤良海が当選・就任したことを届け出たものである。上欄外には「六月十四日区役所受理」と朱書され、題下には社寺係へ提出したことが注記され、末尾には大正十一年十二月二十二日付けで同書式の書類を宗務所宛に提出したと注記されている。前信徒総代石川鴻斎の卒年は大正七年九月十三日であるから、改選までの約四年間、信徒総代を一名欠いていたことになる。

『寺務代理届』

本資料は、大正十一年六月十三日に酉蓮社住職野口広信が芝区長に提出した寺務代理届の控えであり、酉蓮社の寺務一切を通元院住職蓮池徳音に委任したことを届け出たものである。野口広信の署名の下には「信翁」の捺印があり、信徒総代吉川沢誠・前田励成・佐藤良海の署名が続く。上欄外には「六月十四日区役所受理」と朱書され、題下には社寺係へ提出したことが注記されている。

『名義変更届』

本資料は、大正十一年六月十四日に酉蓮社住職野口広信が芝区役所家屋係へ提出した名義変更届の控えである。酉蓮社の前住職藤井慈道が死亡したため、野口広信が後住として就任し、都合上寺務一切の管理を蓮池徳音に委任したので、名義変更のため届け出たと記されている。これに対し、大正十一年六月十二日付の『住職交代届』(先述)では、野口広信は大正十年九月五日に前住職樋口便孝の死亡により酉蓮社住職となったとある。本資料末尾の朱筆書き入れによれば、本資料は酉蓮社の家屋が芝区役所の家屋係備付の台帳に藤井慈道名義のままとなっていることを家屋係に指摘されたことを受け、同係へ提出したものである[45]。おそらく『住職交代届』等の諸届を提出した際に名義上の問題があることが判明し、藤井慈道から樋口便孝へ、樋口便孝から野口広信へという二回の『名義変更届』が必要となるところ、便宜的に先代を藤井慈道としたのであろう。同日付でほぼ同内容の『家屋管理人届』が芝区役所の戸籍係へ提出され、同日受理されている。

本資料の冒頭で、酉蓮社の家屋について木造二階建一棟、建坪百十三坪五合四勺、二階五坪と記している。報恩蔵にしては大きすぎるので、庫裡のことであろう。庫裡は、明治三十三年作成の『寺籍一覧表』では「庫裡 木造瓦葺 九拾七坪一合三勺」とあるから、この二十年の間に二階建てに建て替えられたものと考えられる。酉蓮社蔵の経箱混入資料に『御庫裡建増し及模様替調書』(大工後藤忠造、大正五年十二月二十九日、写本、一綴)・『建増し及模様替工事見積書(含作事図)』(大工後藤忠造、写本、一綴)という二つの文書があり、大正五年頃、通元院の増築計画があった。酉蓮社は当時通元院の管理下にあったから、これと相前後して改築されたのかもしれない。

『寺院檀徒信徒及不動産届』

本資料は、大正十一年三月三十一日に作成し、六月十五日付けで通元院住職蓮池徳音が芝区長に提出した檀信徒・不動産届の控えであり、これに酉蓮社分も書き加えられている。本資料中、通元院は信徒四人・境内地(官有地)二百四十三坪、酉蓮社は信徒九人・境内地(官有地)五百五十六坪七合七勺とある。末尾に「酉社分ハ「右酉蓮社寺務管理蓮池徳音」ト記入」との注記がある。酉蓮社の境内地五百五十六坪七合七勺は、明治三十一年の『敷地使用換願』の学寮敷地四百二十五坪七合七勺・酉蓮社境内地百三十一坪の合計と一致する。

『名義変更届』

本資料は、大正十二年十二月に酉蓮社住職佐藤良智(一九〇三~一九七八)が芝区長に提出した名義変更届の控えである。酉蓮社の前住職野口広信が神奈川県藤沢町の常光寺に転住したため、佐藤良智が後住として就任し、都合上寺務一切の管理を野口祐真(一八七三~?)に委任したので名義変更のため届け出たものである。酉蓮社の家屋に関する記載は大正十一年六月十四日の『名義変更届』と同じである。同月付でほぼ同内容の『家屋管理人届』を芝区長に提出し、都合上家屋一切の管理を野口祐真に委任した旨、届け出ている。

佐藤良智は、酉蓮社信徒総代佐藤良海の子、現在の光円寺(小石川)住職佐藤良純師の父、譲蓮社謙誉信阿と号し、光円寺住職・文学博士・大正大学名誉教授・勲三等瑞宝章[46]。野口祐真は、愛知県海東郡の人、法誉と号し、明治十六年九月五日、通元院住職河野密円のもと得度、同三十二年七月、増上寺大僧正山下現有のもと宗戒を相承、同三十七年九月十三日、常光寺(藤沢)住職に就任し、大正十二年六月二十六日、少僧都に叙せられ、この年、通元院第二十四代住職に就任した[47]

以上が酉蓮社蔵の経箱混入資料中に見られる大正期の酉蓮社関連文書である。次に、これらの資料に通元院関連文書を加えて、大正期の酉蓮社の歴史を整理してみたい。

明治期の項で述べたとおり、明治三十三年頃より光円寺住職不染信翁が通元院・酉蓮社両住職を兼務し、大正二年の遷化まで兼務状態が続いていたと見られる。不染信翁を継いで智香寺(小石川。大正二年当時)住職河野徳円[48]が第二十一代通元院住職となり、続いて樋口便孝[49]が第二十二代となり、酉蓮社住職を兼務した。その後、樋口便孝の死亡により、大正十年九月五日、蓮池徳音に通元院住職、野口広信に酉蓮社住職任命の辞令が下り、翌年六月十三日、それぞれ芝区長に『住職交代届』を提出した[50]。同日、酉蓮社住職野口広信は、都合により通元院住職蓮池徳音に酉蓮社の寺務一切の代理を委任する旨、芝区長に『寺務代理御届』を提出し、さらに翌日には同人を酉蓮社の家屋管理人とする旨、芝区長に『名義変更届』・『家屋管理人届』を提出した。

大正十二年九月一日、関東大震災が発生した。増上寺の近辺にも甚大な被害をもたらしたが、当時の記録や『震災地応急測図原図』「一万分一地形図東京近傍八号・新橋[51]」・『大正十二年東京大震火災地図[52]』を初めとする火災による延焼範囲を記した地図類を見ると、増上寺山内の被害は軽微であり、古川下流の金杉橋方面から燃え広がってきた火災も将監橋付近で収まっている。酉蓮社には地震に関して記した文書が伝わらないが、火災による被害はほとんどなかったものと推測される。

震災の少し前のことになるが、大正十二年七月、通元院住職蓮池徳音が結城弘経寺に転住することになり、藤沢常光寺住職野口祐真を後住とする旨、浄土宗管長宛に任命申請が行われ[53]、同年十二月十四日、芝区長に『住職交代届』を提出した[]。なお同月、通元院野口祐真は信徒総代松涛松巌の死亡により、前住職蓮池徳音を信徒総代とする旨、芝区長に『信徒総代印鑑届』・『信徒総代改選届』を提出した[55]。同月、酉蓮社住職野口広信が藤沢常光寺に転住することになり、佐藤良智を後住とする旨、芝区長に『住職交代届』を提出し[56]、都合により通元院住職野口祐真を酉蓮社の家屋管理人とする旨、芝区長に『名義変更届』・『家屋管理人届』を提出した[57]

大正十三年四月刊行の『浄土宗寺院名鑑』では、通元院・酉蓮社、それと光円寺・常光寺各寺の等級・住職について次のように記す[58]

東京教区芝組 第二部

通元院 准別格九等 大僧都 野口祐真

同 芝組 第三部

酉蓮社 能分三等 権少僧都・得業 佐藤良智

同 豊島組 小石川部

光円寺 准別格一等 大僧都・讃教嗣講 佐藤良海

神奈川教区 鎌倉組 第一部

常光寺 准別格三等 権少僧都 野口広信

明治後期から大正期まで通観すると、大正十年頃までは通元院住職が酉蓮社住職を兼務し、十一年以降は形式上酉蓮社住職を置きながらも、家屋管理を通元院住職に委任し、通元院住職が酉蓮社の管理運営において実質的な役割を担っていたことがわかる。

そもそも通元院は、江戸時代、酉蓮社よりも格上の御霊屋別当寺院であった。それは明治・大正期も変わりなく、常に通元院が酉蓮社よりも格上・上級の寺院であった。通元院は明治維新を経て御霊屋別当寺院としての寺格や収入を失ったものの、明治二十年に東京府に建物等を売却して得た資産があった上、瘡守稲荷の祭礼による収入等もあり、十分な運営資金を有していたようである。そのため必然的に通元院が酉蓮社の住職を兼務し、その管理運営を担うようになったものと考えられる。明治大正期の激動により統廃合されて消えていった増上寺山内寺院が多い中、通元院が酉蓮社の旧境内地に越してきたことで、酉蓮社は命脈を保ち得たと言えよう。

3 『大正新脩大蔵経』への採録

大正期で注目すべき出来事は、大正十二年一月に始まった『大正新脩大蔵経』の編纂において、その底本・校本に酉蓮社の嘉興蔵が数多く採録されたことである。

そもそも『大正蔵』の編纂作業は、当初、東京帝国大学教授・文学博士の高楠順次郎の自邸(東京市小石川区関口台町五番地)に開設された大正一切経編集所で行われ、震災後も高楠邸の一室に仮事務所を置き、大正十三年四月に第一回配本を行った。昭和五年に大正一切経刊行会を合資会社に改組して事業を継続し、昭和七年に大蔵出版株式会社を設立し、昭和九年十一月に全百巻を完成した[59]

『大正蔵』所収経典には、その題下に「〈原〉増上寺報恩蔵本」・「〈原〉増上寺報恩蔵明本」・「〈原〉明幾年刊増上寺報恩蔵本」・「〈原〉清幾年刊増上寺報恩蔵本」等の注記が付されているものがある。これらは酉蓮社蔵本を底本・校本に用いたことを示すものであり、底本に用いられたものは百二十六点、校本に用いられたものは四点、合計百三十点にのぼる。このうち『古尊宿語録』から別出されたものが、底本で二点、校本で二点の計四点ある。その他、底本・校本に採録された可能性のある経典として、『金剛般若波羅蜜経註解』一巻(『大正蔵』一七〇三「〈原〉増上寺蔵明本」)・『廬山蓮宗宝鑑』十巻(『大正蔵』一九七三「〈甲〉崇禎十七年刊増上寺蔵本」)がある[60]

分類別の採録点数を見ると、底本・校本として採録された百三十点の経典中、小乗経阿含部から一点、宋元入蔵諸大小乗経から一点、宋元入蔵諸大小乗経之余から一点、小乗律から二点、此土著述から九十四点、大明続入蔵諸集から二十四点、北蔵欠南蔵函号附から六点、それと嘉興蔵首函から一点[61]となっている。漢訳経典はごくわずかであり、此土著述が最も多く、大明続入蔵諸集がこれに次ぐことから、酉蓮社蔵本は『大正蔵』に中国人の編著を取り入れるために採用されたと考えられる。

先述のとおり『大正蔵』の編纂作業は、当初高楠順次郎の自邸で行われた。ただし増上寺経蔵の三大蔵経及び酉蓮社蔵本を用いた編纂作業については、大正十四年十一月一日に大正一切経刊行会の彫蔵都監名義で書かれた「法宝留影序」に次のようにある[62]

大蔵編纂之室另設於芝増上寺閲蔵亭中、経庫収宋元明麗四蔵、皆国宝也。寺之左右民坊尽罹災厄、只此伽藍山門庫亭安全無事。

これにより、酉蓮社蔵本は山外に出ることなく、増上寺経蔵の宋元麗三大蔵経とともに、増上寺山内にある閲蔵亭で『大正蔵』の編纂に供されていたことがわかる。

この序を冠する『法宝留影』には『大正蔵』の編纂に用いられた経典等の写真が掲載されている。その第十五図に「明蔵 密蔵本 仏医経 明崇禎三年(A.D.1630)印本 東京 増上寺蔵」と題して『仏説仏医経』の第一丁が掲載されている。この経本は酉蓮社蔵本の第百三十九函第二冊に現存しており、写真と同じ箇所に「増上寺/報恩蔵」印が捺されている(図版【22】)。これにより、大正蔵の編纂に酉蓮社蔵本が実際に用いられていたことを確認できる。

『法宝留影』には経蔵内を撮影した「東京増上寺報恩蔵内部」と題する写真が掲載されている(図版【23】)。報恩蔵の内部を撮影した写真はこれまで見つかっていないから、もし本当に報恩蔵の写真であるとすれば非常に重要な資料である。この写真を詳しく見てみると、手前に小型の帙入り本を多数載せた小型の台があり、その後ろの台に羅漢像を祀り、羅漢像の右脇に鐘を置き、羅漢像の後ろの大型の台に輪蔵の創案者と言われる傅大士(四九七~五六九)とその二子普建・普成の像を祀り、傅大士の右側の子像の前に約二十冊の経本を積み重ね、傅大士像の後ろには折り戸を開いた状態の輪蔵が見える。しかしもしこれが報恩蔵であるならば、本尊の了誉聖冏像か、もしくは阿弥陀像・法然上人像が祀られているはずである。そればかりでなく輪蔵内の経箱に「宋本」の二字を確認できる。以上の点から、この写真は報恩蔵ではなく、三大蔵経を納めた経蔵を撮影したものであったと見て間違いない。おそらく『大正蔵』を編纂した学者達にとっては、増上寺の閲蔵亭で「宋元明麗四蔵」を校勘したことが強く印象に残っていて、三大蔵経と酉蓮社蔵の明本(嘉興蔵)との間に収蔵場所・管理者・歴史的役割の違いがあることを知ることなく、ついに三大蔵経を納める経蔵が報恩蔵であると勘違いするに至ったのであろう。

ところで「法宝留影序」に見えるように、増上寺には宋元麗の三大蔵経の他に明本があって、『大正蔵』の編纂に用いられたと従来考えられてきた。ところが近年の研究によって、『大正蔵』中に見える麗本と宋元明本との校記は、実は『日本校訂大蔵経』、所謂『縮刷蔵経』の校記をそのまま踏襲したものが多いとか、明本とは称しているものの、実は黄檗蔵が用いられているといった指摘がなされている。

『縮刷蔵経』は、明治十四年から十八年にかけて弘教書院から刊行された。その底本・校本について『大日本校訂大蔵経目録』「大日本校訂大蔵経凡例」では「麗蔵六千四百六十七巻〈増上寺蔵本〉、宋蔵五千七百十四巻〈同上〉、元蔵五千三百九十七巻〈同上〉、明蔵六千七百七十一巻〈黄檗山刻本〉」と説明する。「黄檗山刻本」は黄檗蔵のことであるが、黄檗蔵が明版大蔵経の一つ嘉興蔵を覆刻したものであったため、「明蔵」と呼んだのである。あえてその所蔵先を記さなかったのは、黄檗蔵が江戸時代から明治にかけて大量に印造され、比較的容易に手に取ることができたからである。

以上に述べた『縮刷蔵経』の特徴から考えて、『大正蔵』の編纂を着実かつ効率よく遂行するためには、『縮刷蔵経』をベースに、増上寺所蔵の宋元明本を用いて『縮刷蔵経』の本文・校記をチェックしていくのが非常に有効であったと想像される。なかには入稿期限に切迫されて、『縮刷蔵経』の校記をそのまま踏襲してしまった経典もあったかもしれない。しかし増上寺所蔵の四本を間近に見ることができる状況にあって、これを脇に置くだけで見なかったとは考えにくい。よって特別の事情がない限り、『大正蔵』は実際に増上寺所蔵の四本を用いて編纂されたと考えるべきであろう。

『大正蔵』の校記に見える底本・校本の記載には、単に「明本」と称するものと、「増上寺報恩蔵本」と称するものとがあり、経典によって違いがある。今回酉蓮社蔵本を採録した経典として計上したのは、「増上寺」と明記してあるものだけであるが、単に「明本」と称する経典の中にも酉蓮社蔵本を用いたものが含まれていた可能性は十分ある。

  1. 止観室の文書・旧蔵書には次のものがある。
    • 『宝庫原簿』(明治三十八年七月改、写本、一冊)
    • 『公債別口貸付利子積立史』(明治十二年一月、写本、一綴)
    • 『秋興八首』(唐・懐素書、拓本の復刻本、一帖、印記「止観/蔵」)
    • 『薬師法』一巻(写本、一冊、表紙「十四/止住/廿四/薬師法」)
    • 『行法軌則』一巻(写本(元禄四年浄厳跋)、一冊、表紙「十四/止住/十八/行法軌則」)
    • 『護摩私記』一巻(写本、一冊、表紙「止住/伝法潅頂諸通/〈護摩私記〉三十卷」、巻末「玉蔵院弟子/泰如」)
    • 『聖如意輪観自在菩薩念誦次第』一巻(写本、一冊、表紙「止住」、題簽題「…□誦次第一卷」)
    • 『般若仏母尊供養念誦要記』一巻(写本(享保三年跋)、一冊、表紙「住/十四/止住/十九/般若仏母尊供養念誦要記」)
    • 『合掌叉手本儀編』一巻(日本諦忍述、延享三年村上勘兵衛等刊本、一冊、表紙「調/七十七/止住」)
    • 『校訂重刊浄土十勝論』十四巻首一巻『輔助義』四巻(日本澄円撰、刊本、十九冊、見返「澄円菩薩撰/浄土十勝論/華頂王宮蔵」、印記「華頂/王宮/之記」。第一冊表紙「止珍/三嶌三谷貳拾一部之内」。印記「縁山神渓/止観蔵本」・「増上寺学寮蔵本」)^
  2. 以上、金行信輔『江戸の都市政策と建築に関する研究』(東京大学博士(工学)論文甲第13954号、一九九九年三月)の「幕府寺社奉行所における建築認可システムの史学的検討」を参照。^
  3. 増上寺部分の篇名は原装の封面題によるが、帝国図書館の箔押しが施された改装表紙の題簽題は「塔頭」を「増頭」に誤る。^
  4. 伊坂道子編『増上寺旧境内地区歴史的建造物等調査報告書』(境内研究事務局、二〇〇三年七月)三三頁の注10・11を参照。^
  5. 添地が作事図内のどこを指すのかは不明であるが、古川沿いの土手か、新谷からのアプローチ(崇禅寮と玄雄寮の間)のいずれかを指す可能性がある。^
  6. 伊坂道子氏はこの酉蓮社の表門を「一門一戸・独立切妻形式」とする。伊坂道子編『増上寺旧境内地区歴史的建造物等調査報告書』(前掲)一三六・一三七頁の「増上寺支院等一覧表」を参照。^
  7. 伊坂道子編『増上寺旧境内地区歴史的建造物等調査報告書』(前掲)八二〜八四頁を参照。^
  8. 太政官布告とは、明治初期、太政官(明治初年に制定され、明治十八年の内閣制度の設置まで存続した最高行政官庁)によって公布された法令のことを言う。^
  9. 第一回の布告は明治四年正月五日に公布された「社寺領現在ノ境内ヲ除クノ外上地被仰出土地ハ府藩県ニ管轄セシムルノ件」、第二回は明治八年六月二十九日に公布された「社寺境内外区画取調規則」である。防衛省防衛研究所所蔵の『昭和二年公文備考』巻第二十五文書二「寺院境内地に関する法令抜萃」を参照。^
  10. 伊坂道子編『増上寺旧境内地区歴史的建造物等調査報告書』(前掲)八〇〜八一頁を参照。^
  11. 「一弥陀仏像 壱躰、一前机 壱脚、一真鍮五具足 壱組、一仝三具足 壱組、一唐金灯籠 壱対、一盛物台 三対、一真鍮皿 六枚、一打鋪 壱、一籏 弐流、一霊膳 壱膳」とある。^
  12. 大区小区制は、明治十一年七月の郡区町村編制法の制定により廃止された。^
  13. 明治四・五年の北谷の状況を伝える『増上寺地中明細総絵図』(前掲)四枚目では、徳存寮の坪数を二百四十坪二合五勺五才と記す。^
  14. 伊坂道子編『増上寺旧境内地区歴史的建造物等調査報告書』(前掲)八〇〜八一頁を参照。^
  15. 以下、「一 位牌 四基、一 霊膳 壱、一 盛物台 二対、一 真鍮三具足 仝、一 伏鉦 壱、一 唐銅灯篭 壱対、一 真鍮盛物皿 二対、一 鏧 壱基、一 中央机 壱脚、一 前机 仝、一 木魚 壱口、一 常香盤 壱、一 幡 壱流」と記す。^
  16. 『東京実測図』は、『東京都港区近代沿革図集 新橋・芝公園・芝大門・浜松町・海岸』(東京都港区立三田図書館、一九七六年三月)所収。^
  17. 酉蓮社蔵の経箱混入資料『大正十年御年回相当 八月廿四日厳修 回向料斉料配施史』に「禅誉密円上人 卅三回忌」とある。^
  18. 酉蓮社蔵の経箱混入資料『旦夕回向記』(写本、一帖)に添付された法名一覧による。^
  19. 酉蓮社蔵の経箱混入資料、明治二十九年十二月二十日『相続講懸金受取之証』に会主「如来寺住職藤井慈道」と署名・捺印する。^
  20. 『一山建屋坪数調絵図』では四間四方とする(図版【16】)。^
  21. USS出版、二〇一一年十一月刊、三〇九〜三一八頁を参照。^
  22. 『五千分一東京図測量原図 建設省国土地理院所蔵』(日本地図センター、一九八四年十月)所収。^
  23. 『三縁山志』巻三「守廟清勢」の「通元院」条、伊坂道子編『増上寺旧境内地区歴史的建造物等調査報告書』(前掲)二〇〜二五頁を参照。。^
  24. 『東京市史稿』遊園編(臨川書店、一九七三〜一九七四年。東京市役所一九二九〜一九三六年刊の複製)第六「芝公園通元院買収」条(二三八〜二四一頁)を参照。なお「庶政要録」を典拠とする。^
  25. 酉蓮社蔵の経箱混入資料『旦夕回向記』(前掲)に付載される「通元院代々順次」によって明治以降の歴代住職十代九名を挙げておく。 十八代 要誉徳典  十九代 禅誉密円  廿代 全誉信翁  >廿一代 寂誉徳円  廿二代 立誉便孝  廿三代 遠誉徳音  廿四代 芳誉祐真  廿五代 遠誉徳音(再住)  廿六代 法誉真冏  廿七代 本誉成孝^
  26. 『新編明治維新神仏分離史料』第三巻関東編(2)(名著出版、二〇〇一年八月)所収の藤本了泰「増上寺に於ける神仏分離問題の顛末」一六一〜一六二頁を参照。なお大正時代に通元院第二十二代住職樋口便孝が語ったところによれば、瘡守稲荷社はかつて堂々たる社殿を有し、例月の法楽を修したとのことである(同前一三二頁を参照)。^
  27. 『新撰東京名所図会』第八篇「芝公園之部下」(東陽堂、一八九七年)所収。^
  28. 酉蓮社蔵の経箱混入資料『旦夕回向記』に添付された法名一覧による。^
  29. 酉蓮社蔵の経箱混入資料『相続講懸金受取之証』(明治二十八年十一月二日付)四点に会主として「光円寺住職不染信翁」と署名している。^
  30. 島田良彦等編、浄土教報社、一九〇二年十一月刊。^
  31. 石川達也「『浄土宗全書』の刊行について」(『大正大学大学院研究論集』第三十三号、二〇〇九年三月)を参照。^
  32. 『従明治三十四年至明治三十五年 浄土宗高等学院専門学院要覧』(不染信翁、一九〇二年七月)九六頁を参照。^
  33. 渡俊治編『書画鑑定必携儒家小誌』(文求堂書店、一九二五年七月再版)二三頁、長沢規矩也監修、長沢孝三編『漢文学者総覧』(汲古書院、一九七九年十二月)を参照。^
  34. 王宝平「明治前期の出版広告にみられる中日交流」(『日本漢文学研究』七、二〇一二年三月)を参照。^
  35. 明治二年一月作成の『諸宗作事図帳』では、北谷の密賢寮があった場所は密雲寮となっている(図版【13】)。酉蓮社へ移住した当時、秦誠音が止観室の修学僧の一人であったのか、すでに学寮主であったのかはわからない。^
  36. 酉蓮社蔵の経箱混入資料『旦夕回向記』に添付された法名一覧による。^
  37. 酉蓮社蔵の経箱混入資料『酉蓮社開山冏師五百回遠忌 回向料斎料配施史』に「悃誉上人十七回忌」とある。^
  38. 『明細簿』では、酉蓮社の境内地は十三間一合・十間の長方形に描かれ、L字型になっていない。^
  39. 『寺籍一覧表』の末尾には「注意 本堂以下建物欄ニハ各坪数ヲ記シ仏堂ニシテ種類異ナルモノハ各別ニ同欄内ニ記入スベシ納金納穀欄ニハ檀信徒ノ施入ニ係ルモノノミヲ記入スベシ雑種地欄ニハ薮崖原野ノ類各別ニ記入スベシ貸地欄ニハ宅地ニシテ他ニ貸与シタル地所ヲ記入スベシ雑種建物欄ニハ厠浴室等ノ坪数ヲ記入スベシ異動欄ハ余白トシテ存スベシ」との注意書きがある。^
  40. 第二類宝物・第六類什金は、記載がない。^
  41. 図版【10】・【16】・【17】・【20】を見ると、酉蓮社の庫裡の形状は、明治二年の『諸宗作事図帳』以降、微細な相違はあるものの、全体の構造は基本的に変わっていない。明治に入っても江戸末期の庫裡がそのまま使い続けられていたものと思われる。^
  42. 酉蓮社蔵の経箱混入資料『旦夕回向記』に添付された法名一覧による。^
  43. 酉蓮社蔵の経箱混入資料『浄土宗東京教区寺院名鑑』(大正二年八月東京教区教務所長権僧正野澤俊冏序)中、吉川沢誠の名は芝組第二部最勝院の所に見え、前田励成の名は田町部龍原寺の所に見える。^
  44. 酉蓮社蔵の経箱混入資料『大正二年九月十日(通元院)出納帳』の大正三年三月二日条に「光円寺佐藤氏晋山ニ付御供養料」とある。^
  45. 本資料末尾の朱筆書き入れに「右ハ家屋係備付台帳ニ藤井上人名義トナリ居リシヲ発見セシヲ以テ仝係ノ注意ニヨリ仝係ヘ提出セシモノナリ。」とある。^
  46. 『浄土』第四十五巻第三号「佐藤良智博士追悼号」(一九七九年二月)を参照。^
  47. 酉蓮社蔵の経箱混入資料、『住職任命申請(控)』(通元院前住職蓮池徳音他三名)附『住職申請履歴用紙』による。^
  48. 河野徳円の名は『浄土宗東京教区寺院名鑑』(前掲)豊島組小石川部智香寺の所に見える。酉蓮社蔵の経箱混入資料『旦夕回向記』に添付された法名一覧によれば、滅蓮社寂誉上人入阿聖道徳円老和尚。^
  49. 明治三十五年刊行の『浄土宗寺院名鑑』(前掲)の第一大教区結城小教区に「弘経寺 十六(等級) 大僧都 樋口便孝」とあり、通元院・酉蓮社の住職となる前は、旧関東十八檀林の一つ弘経寺の住職であった。^
  50. 酉蓮社蔵の経箱混入資料、『住職交代届(控)』(通元院住職蓮池徳音他三名)による。^
  51. 日本地図センター複製発行。『震災地応急測図原図』は、国土地理院の前身陸軍陸地測量部が関東大震災直後の被災状況を調査し、その記録を大正十二年一月発行の一万分一地形図(明治四十二年測図・大正十年第二回修正測図)に書き込んだものである。^
  52. 丸之内新聞社、一九二三年刊、訂正第三版、国際日本文化研究センター蔵。https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/map_detail.php?id=001813245^
  53. 酉蓮社蔵の経箱混入資料、『住職任命申請(控)』(通元院前住職蓮池徳音他三名)附『住職申請履歴用紙』による。^
  54. 酉蓮社蔵の経箱混入資料、『住職交代届(控)』(通元院住職野口祐真他二名)による。^
  55. 酉蓮社蔵の経箱混入資料、『信徒総代印鑑届』・『信徒総代改選届』(いずれも通元院住職野口祐真他三名)による。^
  56. この時提出された『住職交代届(控)』は伝わらないが、酉蓮社蔵の経箱混入資料、『住職交代届』(通元院住職野口祐真他二名)の末尾の注記に「酉社交代届仝時提出、仝一書式ニ付、控省略。」とあるのによる。^
  57. 酉蓮社蔵の経箱混入資料には『雲介子関通全集』第二巻・第三巻が含まれている。特に第二巻(関通上人全集刊行会、一九二七年)には発送時の書籍梱包用の段ボールが残っており、発送者が転法輪寺(京都市右京区)、宛名が通元院野口祐真となっている。その消印が昭和九年四月十一日であることから、少なくともこの年まで野口祐真が通元院住職を続けていたと見られる。^
  58. 横井孝中編、一音社、一九二四年四月刊行。^
  59. 大蔵出版株式会社ホームページ「会社案内」を参照。^
  60. 百三十二点のリストについては、拙著『酉蓮社(旧三縁山増上寺山内寺院報恩蔵)収蔵嘉興版大蔵経目録』(酉蓮社、二〇一二年三月)附録「大正新脩大蔵経採録経典」を参照。^
  61. 『大正蔵』には、その姉妹編ともいうべき『昭和法宝総目録』という目録彙編が三巻あり、そのうち第二巻所収の『大明三蔵聖教北蔵目録』(『大明三蔵聖教目録』四巻『大明続入蔵諸集』一巻『北蔵欠南蔵函号附』一巻)の底本に酉蓮社蔵本が用いられている。『大明三蔵聖教目録』は、嘉興蔵の首函に『刻蔵縁起』・『画一目録』とともに収録されている。^
  62. 大正一切経刊行会編『法宝留影』(大正一切経刊行会、一九二五年)を参照。^

後篇 昭和期以降の酉蓮社

本篇では、昭和期以降の酉蓮社について見てみたい。この時期の重要な出来事としては、戦前における寺院規則認可申請と境内地の分断、戦後における復興計画と宗教法人化、高度経済成長期における本堂・庫裡の新築と境内地の売却・移転等があり、主な参考資料としては酉蓮社関連文書二冊(酉蓮社蔵)等がある。

1 戦前 寺院規則認可申請と境内地の分断

昭和五年刊行の『全国寺院名鑑』によって当時の関連寺院の住職を確認すると、酉蓮社が佐藤良智、通元院が野口祐真、光円寺が佐藤良海となっており、大正十二・十三年当時と異動はない[1]

『雲介子関通全集』第五巻の巻頭には、関通が大蔵経を寄贈した寺院として「酉蓮社経堂」と名付けられた写真が掲載されている(図版【24】)。これは第五巻が刊行された昭和十二年頃に撮影されたものと見られる。写真自体が小さい上、正面に塀があって、建物の上部しか見えないが、建物の雰囲気はよく伝わってくる。酉蓮社の庫裡にしては小さすぎるので、本堂である報恩蔵を撮影したものと考えてよかろう。報恩蔵は創建から明治大正期に至るまで境内地の南側に位置し、これほど近くに塀があることはなかった。報恩蔵の近くに塀が設けられるに至った原因については後述する。

昭和十三年刊行の『浄土宗寺院名鑑』に次のようにある[2]

東京教区 芝組 第二部

通元院 能四 (兼)久米真冏

同 芝組 第三部

酉蓮社 准別六 権少・輔・擬 石川龍音

同 小石川部

光円寺 別九 権大・准讃・擬 佐藤良智

神奈川教区 鎌倉組 第一部

常光寺 准別二 権少・輔 野口広信

通元院は久米真冏が第二十六代住職となり、酉蓮社は佐藤良智が光円寺住職に移り、権少僧都の石川龍音が住職となっている。寺格は、酉蓮社が能分から准別格に昇格し、通元院が准別格から能分に降格している。久米真冏の本務寺院は神奈川教区小机組第一部の泉谷寺であり、僧階は大僧都、教階は准讃教、学階は嗣講であり、他に小机組第二部源東院、第三部浄泉寺等の住職も兼務していた。石川龍音は、昭和八年十一月刊行の『今岡教授還暦記念論文集』に「宗敎改革者としての法然上人」という論文を寄稿している[3]

昭和十四年四月、『宗教団体法』の発布(翌年四月一日施行)を受けて『浄土宗宗制』が制定され、昭和十六年三月二十八日付で施行された。同年七月刊行の『浄土宗宗制』附録の『浄土宗寺院名鑑』に次のようにある[4]

東京教区

通元院 能分  四四等 少僧都・輔・擬 前田成孝

酉蓮社 准別格 三六等 少僧都・輔・擬 石川龍音

光円寺 別格  二九等 大僧都・輔・擬 佐藤良智

神奈川教区

常光寺 准別格 三八等 権少・輔 野口広信

通元院は少僧都の前田成孝が第二十七代住職となり、酉蓮社・光円寺住職に異動はないが、石川龍音が少僧都となり、寺格・等級とも酉蓮社が通元院より高くなっている。大正十二年十二月に酉蓮社から常光寺に転住した野口広信は、以後昭和四十四年まで同寺住職であった[5]

酉蓮社に保管されている昭和期以降の寺務関係書類の中で最も年代の古いものは、昭和十七年の書類である。太平洋戦争が始まってまもない昭和十七年三月十三日、酉蓮社住職石川龍音は、浄土宗管長大僧正郁芳随円に『意見書下付申請』を提出した。この申請は、昭和十五年四月一日施行の『宗教団体法』第六条に、

寺院又ハ教会ヲ設立セントスルトキハ、設立者ニ於テ寺院規則又ハ教会規則ヲ具シ、第二項第五号ノ教会ヲ除クノ外、予メ管長又ハ教団統理者ノ承認ヲ経、法人タラントスル教会ニ在リテハ、其ノ旨ヲ明ニシ、地方長官ノ認可ヲ受クルコトヲ要ス。

とあるのに従い、酉蓮社の寺院規則を定め、東京府知事に『寺院規則認可申請書』を提出するため、浄土宗管長の承認と意見書の下付を求めたものであり、申請書類には「申請項目書」・「境内建物ノ構造」・「酉蓮社寺院規則」・「教義ノ大要」・「由緒沿革」・写真一枚・「酉蓮社実測平面図」(縮尺百分の一)・「酉蓮社位置及実測」(六百分の一)が添付されている。

「申請項目書」は、名称・所在地・本尊の称号・所属宗派の名前・本寺の名称及所在地・境内地・境内建物及所有者・添付書類の八項目からなり、このうち「境内地」欄に次のようにある。

所在地地番 東京府東京市芝区芝公園第十四号地十七番

地目坪数  寺院境内地 六十四坪一合二勺(譲与申請中)

右所有者  国有

増上寺の境内地は、先述のように、明治初めの上知令によって官有地となっていたため、増上寺及び山内寺院では戦前から境内地の無償譲与を関東財務局に申請していた。「申請項目書」の「境内地」欄に「譲与申請中」・「国有地」とあるのはそのためである。

「境内建物及所有者」欄は、境内建物の種類名称を「経堂」、用途を「経蔵」、坪数を「十五坪八合三勺」と記す。明治三十三年当時の経蔵(『寺籍一覧表』)よりも建坪が三坪五合八勺増えており、建て替えが行われていたことがわかる。

「境内建物ノ構造」は、経堂の構造を「鉄筋コンクリート造り瓦葺平家建」、「方桁」造(方形造・宝形造)、軒高十七尺五寸と記す。報恩蔵の建て替えに際し、関東大震災を経て普及し出した鉄筋コンクリート造を採用することにしたのであろう[6]

「酉蓮社寺院規則」には、「本寺院の本尊は阿弥陀仏とし、宗祖円光大師、酉蓮社了誉上人の尊像を安置す。」とあり、了誉聖冏像の伝存を確認できるが、本尊は再び阿弥陀仏像となっている。

「由緒沿革」には次のようにある。

寛延三年五月練誉雅山和尚有志ヲ募リ学徒策励ノ為メ明本ノ一切経ヲ納メ報恩蔵ヲ建立シ増上寺開祖酉誉上人ノ師酉蓮社了誉上人ノ影像ヲ安置シ酉蓮社ト号ス。其後学寮主誠音ヨリ止観室敷地を酉蓮社ヘ寄付ニナリ現在ニ至ル。

「其後学寮主誠音ヨリ止観室敷地を酉蓮社ヘ寄付ニナリ現在ニ至ル。」の一文は、明治四年に北谷の学徒を受け入れて以来、いつしか学寮の敷地となっていた四百二十五坪七合七勺について、明治三十一年二月に協議の上、学寮主秦誠音が酉蓮社に寄付したことを指す[7]。止観室は秦誠音の学寮の室名である。

「酉蓮社実測平面図」は、昭和十七年二月に作成された経堂の図面である(図版【26】)。十五坪八合三勺、二十二尺四方、正面は観音扉になっていて、きざはしが設けられている。

「酉蓮社位置及実測」図は、周辺図・凡例・坪数の算出法からなり、凡例は寺院境内地を①「本堂庫裡会堂其ノ他寺院又ハ教会ニ必要ナル建物又ハ工作物・敷地ニ供スル土地」・②「本寺院ノ目的外ニ使用セル敷地」に区別する(図版【27】)。本図によれば、経堂は北向きで、①「本堂庫裡会堂其ノ他寺院又ハ教会ニ必要ナル建物又ハ工作物・敷地ニ供スル土地」六十四坪一合二勺と算出されている。道路を挟んだ北側には②「本寺院ノ目的外ニ使用セル敷地」二百十二坪二合九勺が算出され、経堂の西隣には②ダッシュ「本寺院ノ目的外ニ使用セル敷地」百九十五坪四合八勺が算出されている。これら三つの敷地を合計すると四百七十九坪八合八勺となり、大正十一年当時の敷地面積五百五十六坪七合七勺(『寺院檀徒信徒及不動産届』)より八十四坪八合八勺少ない。

本図をよく見てみると、②の北西の角には約十二坪の切れ込みがあり、その先には旧山下谷方面に通じる小道があることから、この切れ込みはかつて酉蓮社の表門があった場所に相当すると考えられる。試しに①・②ダッシュと②、そしてその間の道路部分を合わせた部分を、明治三十三年当時の酉蓮社の作事図と比較してみると、その形状はほぼ一致する。以上の点から、この道路が酉蓮社の境内地を東西に突っ切る形で建設されたことにより、境内地が南北(①・②ダッシュと②)に分断されたことがわかる。先述の経堂の建て替えと、経堂の目の前にある塀の設置は、この道路が建設された際に行われたと見て間違いない[8]

この道路は、現在の日比谷通り芝公園グランド前交差点から将監橋交差点・金杉橋北交差点を通ってJR山手線方面にまっすぐに抜ける道路に当たる。大正十三年刊行の『時事新報附録復興局公認東亰及横浜復興地図』では計画中の「新道路」として描かれ[9]、『昭和二年東京全図』ではすでに道路が通っている[10]。よって関東大震災後の復興計画の一環として、昭和の初めまでに建設されたと考えてよかろう。

『寺院規則認可申請書』に添付された写真は、酉蓮社を分断した道路に出て、カメラを南西の方角に構え、①・②ダッシュが写るように撮影したものである(図版【25】)。手前に塀が見え、塀の向こうには①の敷地内にある経堂の向背屋根より上の部分と、②ダッシュの敷地内にある建物の屋根が見え、塀に沿って切妻造の表門も見える。経堂は寄棟造で、屋根の頂きには如意宝珠が飾られている。②ダッシュの敷地内にある建物が酉蓮社の所有物件であったかどうかはわからないが、庫裡であれば凡例①に該当するはずであるから、他者に賃貸していたか、他者が所有していたと見られる。なお北側の敷地である②は写っていない。この写真は『雲介子関通全集』第五巻巻頭の「酉蓮社経堂」と形状が同じであり、道路の建設に伴って建て替えられた新経堂を別アングルから撮影したものである。

2 戦後 復興計画と宗教法人化

昭和二十年三月九日・十日、五月二十四日・二十五日の東京大空襲により、増上寺は大殿をはじめ、そのほとんどが灰燼に帰したが、戦後まもなく復興に取りかかり、昭和二十六年十二月十二日に仮本堂が上棟した[11]。その翌年一月十九日、酉蓮社管首山田海学(一八九〇~?)は『酉蓮社復興計画書』を作成し、同日、大本山増上寺執事長大野法道の承認を得た。本資料は本堂及び庫裡の再建計画であり、東京都港区芝公園十四号地の二百五十七坪二合六勺の敷地に、総工費八十一万円を投じて、建坪二十七坪の木造瓦葺平家建一棟を建築するというものであった。昭和十七年当時に比べ、敷地にして四倍、建坪にして一・七倍の規模である。

本資料には「酉蓮社境内図」(縮尺六百分の一)と「平面図」(縮尺百分の一)が添付されている(図版【28】)。「酉蓮社境内図」を見ると、東に見える通元院との位置関係から、かつての酉蓮社の庫裡があった辺りに本堂を配しているようであり、さらに旧瑞善院の敷地から清光寺との境界にかけて古川沿いの横長の土地を新たに境内地に組み込んでいる。「平面図」によれば、三十二畳(二十四尺四方)の本堂と八畳(十二尺四方)の書院からなり、本堂の南側に内陣と須弥檀、書院の西側に台所・土間・押入を設けている。

酉蓮社は昭和十七年に『宗教団体法』に従って寺院設立の認可申請をしていたが、第二次大戦後、昭和二十年十月四日の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命令により十二月二十八日に『宗教団体法』が廃止され、認可制を届出制に変更する等して『宗教法人令』が施行され、さらに昭和二十六年四月三日に『宗教法人法』(法律第百二十六号)が公布・施行された。増上寺の山内寺院が昭和二十七・二十八年に続々と宗教法人としての認証を受ける中、酉蓮社も昭和二十七年八月二十日に酉蓮社住職山田海学が東京都知事に『宗教法人規則認証申請書』を提出し、十月三十一日に認証を受け、宗教法人となった。

この年、宗教法人化とともに実現したのが、増上寺境内地の無償譲与である[12]。先述のように、明治初めの上知令・地租改正によって社寺領の多くが国有化し、政府はこれら国有境内地を社寺に無償で使用させていた。大正十年、『国有財産法』が制定され、寺院仏堂用地は雑種財産として寺院が祭事法要に最低限必要な部分として従来通り使用する間は、国が無償貸与したものとみなすと暫定的に規定された。

昭和十四年、『宗教団体法』が制定された際、「寺院等ニ無償ニテ貸付シアル国有財産ノ処分ニ関スル法律」(昭和十四年法律第七十八号)が制定され、寺院仏堂の国有境内地の譲与処分が開始された。こうして社寺境内地の第一次処分が始まったが、太平洋戦争の激化により中断を余儀なくされた。

昭和二十一年、日本国憲法が制定されると、政教分離の主旨に則って、国と社寺との間に存した国有境内地の無償貸付関係を清算する必要が生じた。昭和二十二年、「社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律」(昭和二十二年法律第五十三号)が制定され、寺院の宗教活動に必要な国有境内地を寺院に譲与または半額売却することになった。こうして第二次処分が始まり、学識経験者による綿密な調査と同時に、中央・地方に設置された社寺境内地処分審査会によって慎重に審議・処分が進められ、昭和二十七年末までに国有境内地の処分事務を完了した。

増上寺及び山内の各寺院では、戦前から境内地の無償譲与を大蔵省の関東財務局に申請していたが、昭和二十七年十二月二十四日、東京都港区芝公園一号地一番地の一他三十二筆、計三万九千二百二十三坪三十五勺、及び付帯立木の財産が増上寺に一括譲与された。酉蓮社は三百九十五坪五合四勺の境内地を譲渡申請していたが、譲与が認められたのは百七坪五合八勺にすぎず、三割に満たなかった[13]。『復興計画書』に記載された計画面積に比べても約四割にすぎないが、昭和十七年当時の境内地六十四坪一合二勺に比べれば、約一・七倍の増加である。

増上寺への一括譲与が実現した約一年半後の昭和二十九年五月三十日、測量士・土地家屋調査士の八木喜良によって酉蓮社周辺の大蔵省の所有地の測量が行われ、『港区芝公園地拾四号地四八番ノ一外五筆実測図』が作成された(図版【29】)[14]。本図は、縮尺三百分の一の「実測図」・六百分の一の「位置図」・「求積表」・「凡例」・「案内図」からなる。このうち「位置図」は、東は片門通、西は五号地、南は古川、北は酉蓮社の門前を通る道路を境界とし、その内側の土地を、四七番・通元院、四八番ノ一大蔵省(二百十六坪四合、家屋六棟)、四八番ノ二大蔵省(八坪五合一勺)、五〇番大蔵省(六十二坪九勺、家屋三棟)、五一番酉蓮社、二番東京都、五二番ノ一大蔵省(五十五坪四勺)、五二番ノ二大蔵省(二十七坪五合一勺)、五二番ノ三大蔵省(十六坪二合九勺)に区分けしている。

「位置図」のうち五一番酉蓮社と、その西側の五二番ノ一・二・三大蔵省所有地は、昭和二十七年一月の『酉蓮社復興計画書』「酉蓮社境内図」(図版【28】)において酉蓮社の境内地として計画されていた場所である。五一番酉蓮社の敷地面積が、昭和二十七年十二月に増上寺に一括譲与された酉蓮社の境内地百七坪五合八勺と同じであると考えた場合、『酉蓮社復興計画書』立案時の計画面積はこれに五二番ノ一・二・三大蔵省所有地九十八坪八合四勺を足した二百六坪四合二勺となり、酉蓮社が譲与申請していた三百九十五坪五合四勺と全く一致しない。これに対し、五一番酉蓮社と、その東側の四八番ノ一・二、五〇番大蔵省の敷地を合計すると三百九十四坪五合八勺となるから、酉蓮社が譲与申請していたのは、この東側四筆分の敷地であったと考えられる[15]。つまり昭和二十七年一月の『酉蓮社復興計画書』から昭和二十七年十二月の増上寺への一括譲与に至るまでの約十一ヶ月のうちに譲与申請地が変更されたことになる。酉蓮社本来の境内地が東側四筆分の敷地であることを考えれば、妥当な判断であったといえる。

戦前、了誉聖冏像や嘉興蔵が奉納されていた本堂の位置は、昭和二十九年の「位置図」では四八番ノ一大蔵省の敷地内に相当する。しかし「位置図」を見ると、この場所には家屋六棟が建設されており、なおかつ「求積表」では四八番ノ一の申請者を「岩楯」とする。酉蓮社蔵の経箱混入資料の中には芝公園十五号岩楯『□座帳(昭和十九年一月吉日)』・岩楯鷹蔵『日記(昭和廿一年参月参日)』が伝わり、岩楯氏は戦中戦後にこの土地に転入し、倉庫の賃貸料を取るなどして生計を立てていた人物と見られる。酉蓮社蔵の経箱混入資料の中に岩楯氏の書類が紛れ込んでいるのは、経箱が岩楯氏の敷地内に置かれていた時期があったからであると考えられる。

酉蓮社は、先述のように、戦後本堂・庫裡の再建計画を立てていることから、東京大空襲により大きな損害を被ったと見られる。しかしながら嘉興蔵は難を逃れ、現在に伝わっている。光円寺現住職佐藤良純師によれば、通元院は空襲による焼失を免れたとのことであるから、嘉興蔵は通元院か岩楯氏の敷地にあって焼失を免れたと推測される。なお本尊の了誉聖冏像については、この頃より所在不明となっている。

3 高度経済成長期 本堂・庫裡の新築と境内地の売却・移転

昭和二十九年十二月、日本は敗戦による荒廃から復興し、経済成長率が年平均十パーセントを超える高度経済成長期へと突き進んでいった。この時期、酉蓮社はようやく本堂・庫裡を新築し、さらに境内地の売却、目黒区への移転という新しい展開を見せることとなった。

昭和三十年一月十八日、山田海学が酉蓮社兼務住職を辞任し[16]、龍原寺前住職前田励成の徒弟前田成慧(一九二二~一九七六)を後任住職とする旨、浄土宗務所に申請し、三月十五日に認証された。その五日前の三月十日、前田成慧は、酉蓮社の本堂・庫裡の新築予定地が増上寺から無償譲与された土地であることを証明してもらうため、増上寺代表役員椎尾辨匡に『(無償譲与)証明書』を提出し、同日付けで証明を受けた。当時、山内各寺院の境内地は、西武鉄道株式会社との間に土地問題があった関係で、いまだ増上寺に一括無償譲与された状態に留まっていて、各寺院の所有になっていなかった。酉蓮社が本堂・庫裡の新築に際し、わざわざ増上寺に証明を求めたのは、そのためである。

昭和二十七年一月に本堂・庫裡の再建が計画されて(『酉蓮社復興計画書』)、わずか三年後のことであり、三年の間に二度も新築するとは考えにくいから、まずは仮本堂のようなものを建ててその場をしのいでいたか、もしくは資金・資材等の不足により計画が思うように進まないなどして、この時やっと再建に着手できたのであろう。

この時新築された本堂・庫裡の詳細については、昭和三十一年に登録税免除申請のため東京都知事に提出した『境内建物証明願[17]』と、昭和三十二年七月一日に東京法務局芝出張所に提出した『家屋所有権保存登記申請書』によって知ることができる。これらの文書によれば、新築された本堂・庫裡は木造瓦葺平家建一棟、建坪十九坪八合四勺であり、『酉蓮社復興計画書』の約七割強にすぎない。これには大蔵省から無償譲与された敷地が酉蓮社の申請していた敷地の三割に満たなかったことが影響していよう。

『境内建物証明願』には「宗教法人「酉蓮社」配置図及び案内図」が添付されている(図版【30】)。このうち案内図は極めて簡略なものながら、酉蓮社の境内地が『港区芝公園地拾四号地四八番ノ一外五筆実測図』(図版【29】)の「五一番酉蓮社」の場所にあることを確認できる。また『家屋所有権保存登記申請書』に添付された「宗教法人浄土宗「酉蓮社」境内建物平面図」(図版【31】)によれば、境内地の北側に本堂六畳・仏間三畳、その西側に玄関三畳がある。庫裡は本堂の南西に位置し、居間六畳・書斎八畳からなり、居間の西側に浴室・押入・台所があり、書斎の南西に内玄関がある。本堂と庫裡は、本堂の南側に設けられた廊下によって接続している。

酉蓮社の住所は、昭和二十七年十月三十一日の宗教法人の認可申請の時には東京都港区芝公園十四号十七番であったが、その後二度に渡って住所の変更を届け出ている。

最初の変更は、住所表記の修正であり、実際に移転があったわけではない。酉蓮社は、寛延三年の創建以来、増上寺の東南の角地に境内地を所有し、明治以降は東京府東京市芝区(後に東京都港区)芝公園十四号十七番の地番を使っていた。そのため宗教法人の申請もこの地番で行った。昭和三十二年七月に一連の土地問題が決着したことで、増上寺は大蔵省から無償譲与された末寺境内地を各寺院に分与するため、浄土宗宗務総長に対して申請を行った[18]。酉蓮社に対しては、昭和三十二年十一月二十五日に境内地百七坪五合八勺が贈与されたが、この時の『贈与証明書』では、港区芝公園十四号地五十一番の境内地を港区芝公園第十四号地十七番の酉蓮社に贈与したことになっている。実際、昭和二十九年五月二十日測量の『港区芝公園地拾四号地四八番ノ一外五筆 実測図』(図版【29】)の「位置図」では、酉蓮社の地番が十七番ではなく、五十一番となっている。酉蓮社では、通称の地番である十七番が、大蔵省によりいつの間にか五十一番に変更されていたことを知り、昭和三十三年六月一日の責任役員会で新地番への変更と、それに伴う「寺院規則」第二条の変更を決議し、九月十六日に『宗教法人「酉蓮社」規則一部変更理由書』を提出して承認されたのである。

二度目の変更は、首都高速道路の建設によるものである。昭和三十四年六月十七日、高度経済成長と、それに伴うモータリゼーションの進展を背景に、交通渋滞緩和等を目的として首都高速道路公団が設立され、高速道路の建設事業が開始された。増上寺周辺でも、都市高速道路2号線(品川区西戸越一丁目~港区芝海岸通り、延長八・九キロメートル。現在の首都高速都心環状線の一部)が計画され、酉蓮社の裏手を流れる古川に沿って用地買収が始まった[19]。これにより、酉蓮社の境内地は、昭和三十八年に二度に渡って高速道路用地として収用されることになった。

第一回の収用は二月二十五日のことであり、境内地百七坪五合八勺のうち南側の境内地四十一坪八合九勺(実測値三十九坪四合九勺[20])を首都高速道路公団に売却することが、浄土宗代表役員岸信宏(知恩院第八十三世)により承認された(図版【32】)。第二回の収用は六月二十日のことであり、残りの境内地六十八坪九合(実測値四十七坪九合四勺)を首都高速道路公団に追加売却することが第一回同様承認された(図版【33】)。六月二十九日には東京都知事に『規則変更認証書』及び『宗教法人「酉蓮社」規則変更理由書』を提出し、境内地が首都高速道路公団に収用されたことを理由に、東京都目黒区平町五十一番地に代替地を購入して移転するための住所変更を申請し、八月一日に受理、翌日認証された。

こうして芝公園の酉蓮社の境内地はすべて首都高速道路公団に収用され、目黒区平町五十一番に百九坪七合五勺の敷地を得て移転した。昭和三十年に新築したばかりの本堂・庫裡は、昭和三十八年六月二十六日に解体され、法類の玉蓮院(東京都台東区浅草石浜町、現在の台東区橋場)に無償贈与された[21]。ちなみに玉蓮院では昭和四十六年に本堂・庫裡・幼稚園園舎の改築が成り、四月にその落慶法要を行っており[22]、酉蓮社の譲与した本堂・庫裡は今はもう存在しない。

この頃の酉蓮社及びその法類である各寺院の状況については、昭和四十四年十二月刊行の『浄土宗寺院名鑑』(前掲)に次のようにある。

東京教区 芝組

通元院 39 (兼)前田成孝

酉蓮社 40 大僧・輔・擬 前田成慧

同 城南組

龍原寺 35 僧正・正讃・擬 前田成孝

同 豊島組

光円寺 34 正僧・正讃・已 佐藤良智

寺院の等級は通元院が三十九等、酉蓮社が四十等であり、再び通元院の方が高くなっている。また前田成孝は龍原寺住職を本務とし、通元院住職を兼務している。

4 そして現代へ 嘉興蔵の流転

明治二十年に通元院が酉蓮社の旧境内地に移転してきて以降、嘉興蔵は酉蓮社とともに通元院住職の管理下にあったと見られる。酉蓮社に伝わる昭和三十八年三月三十一日作成の『財産目録』では、「特別財産」として阿弥陀仏立像一体・仏舎利厨子一基を記載するのみであり、嘉興蔵は記載されていない。これも長い間、嘉興蔵が通元院の管理下にあったことと無関係ではなかろう。

嘉興蔵は、明治に入って学徒策励という本来の役割を失った。大正期には『大正蔵』への採録という栄誉に浴したものの、その後は通元院の管理のもと人目に触れることなく時を過ごし、昭和三十八年には酉蓮社の目黒区移転によって創建以来の管理者と離ればなれとなった。しかし昭和四十九年に増上寺新大殿完成を記念して開催された展示会、「増上寺と徳川展」・「記念切手展」に同時出品され、酉蓮社の収蔵品として再び日の目を見ることとなった[23]。この時の酉蓮社住職は、前田成慧である。

「増上寺と徳川展」は、昭和四十九年十一月十日より十七日にかけて大本山増上寺・同奉賛会の主催により増上寺地下展示場で行われた。その時の出品目録である『増上寺と徳川展出品目録』(家蔵)によって酉蓮社の嘉興蔵の出品を確認できる。この出品目録は一紙の両面に表紙・目録三頁を印刷し、これを半分に折って小冊子に仕立てたもので、表紙の右上部に葵の御紋、中央に「増上寺と徳川展出品目録」、左に「昭和四十九年十一月十日より十七日まで/於大本山増上寺地下展示場」とあり、「大本堂落慶記念/(大本堂の絵)/大本山増上寺/49・11・10~17」の墨印、「法然上人開宗八百年記念/49・11・10~17/(法然上人の絵)/増上寺と徳川展」の朱印が捺されている。酉蓮社の嘉興蔵は、その本文第三頁に「酉蓮社御出品/明版大蔵経 一巻」と掲載されている。

「記念切手展」は、大本山増上寺・関東郵趣連盟の主催により増上寺会館講堂で行われた。酉蓮社には、この展示会で使用された木製のキャプションと、大殿落慶記念切手展の記念色紙が保存されている。色紙には右に「大殿落慶記念切手展」、中央に「本尊阿弥陀如来」、左に「為前田成慧殿」と墨書され、「三縁山」・「仏法/僧宝」・「大本山/増上寺」の朱印が捺され、さらに記念切手三枚が貼られ、芝郵便局の日付印が三種捺されている[24]。木製のキャプションには「酉蓮社 明版大蔵経 三巻」とある。色紙は内覧会で来賓や展示協力者に配られた引き出物かもしれない。

展示された酉蓮社の嘉興蔵については、『増上寺と徳川展出品目録』では一巻とあり、切手展のキャプションでは三巻とあるから、同時期に開催された二つの大殿落慶記念展に計四巻を出品していたことになる。ただし、このとき展示されたのが、どの経典であったかはわからない。

昭和五十一年三月三日、前田成慧住職の遷化により、龍原寺前田成孝住職の徒弟前田孝雄師が酉蓮社の住職となった。この頃、通元院の建て替えがあり、その際、嘉興蔵は龍原寺に預けられたとのことである。前田孝雄師は後に龍原寺の住職を兼務して、昭和五十八年七月六日に酉蓮社住職を辞任し、青木照憲師が住職となった。昭和六十三年二月二十五日、木造アルミニウム板葺二階建の居宅を取り壊し、平成元年三月三十日に鉄筋コンクリート造ルーフイング葺三階建の本堂・庫裡を新築した。これが現在の本堂・庫裡である。龍原寺に預けられていた嘉興蔵は、平成十八年十月二日、晴れて酉蓮社のもとに帰り、同二十二年四月、新たに建設された収蔵庫に納められ、現在に至っている。

  1. 伊藤由三郎編、全国寺院名鑑発行所、一九三〇年刊。なお本書は府県別・五十音順で各寺院を収録するが、酉蓮社を「西蓮寺」に誤り、東京府・サ之部に収録する。^
  2. 教学週報社、一九三八年刊。^
  3. 大正大学浄土学研究会、一九三三年十一月刊。^
  4. 浄土宗務所宗務局、一九四一年七月刊。『浄土宗宗制』第四章第一部第二百十九条によれば、寺格は寺院の由緒・沿革・業績によって定め、総本山・大本山・大檀林・檀林・准檀林・独礼・別格・准別格・能分・准能分の十種からなり、第二百二十二条によれば、等級は所得によって定め、一等〜五十五等、及び等外とする。^
  5. 『浄土宗寺院名鑑』(浄土宗宗務庁、一九六九年十二月)を参照。^
  6. 鉄筋コンクリート造で伝統様式を再現した日本最初の寺院建築は、大正四年十一月に建立された東本願寺函館別院である。「[近代宗教建築]大谷派本願寺函館別院」(『月刊文化財』平成十九年十二月号、二〇〇七年十二月)を参照。^
  7. 中篇「明治大正期の酉蓮社」の『敷地使用換願』を参照。^
  8. 酉蓮社の経堂の東隣に見える「寺院境内地」は通元院の境内地であり、通元院も多くの境内地を道路に取られていたことがわかる。^
  9. 株式会社時事新報社、一九二四年刊。国際日本文化研究センター蔵。^
  10. 国際日本文化研究センター蔵、出版社・出版年とも不明。昭和五年東京日日新聞発行所刊行の『東京日日新聞附録復興完成記念東京市街地図』でもこの道路が確認できる。^
  11. 『大本山増上寺史』本文編(前掲)四一三〜四二一頁を参照。^
  12. 以下、明治初年の社寺境内地の国有化と、昭和二十七年末の無償譲与等による処分完了に至るまでの経緯については、大蔵省管財局編『社寺境内地処分誌』(大蔵財務協会、一九五四年四月)巻頭の窪谷直光「刊行の辞」による。^
  13. 『大本山増上寺史』本文編(前掲)四二一〜四三二頁を参照。^
  14. 本図は、後述の昭和三十年『(無償譲与)証明書』に添付されていたものである。^
  15. 九合六勺の誤差は、酉蓮社の敷地面積の求め方の違いによるものであろう。^
  16. 酉蓮社蔵の近代文書によれば、山田海学は、兼務住職辞職後、酉蓮社の信徒総代となっている。^
  17. 他に翌年十二月十五日付けで作成された『境内建物証明願』も存在する。おそらく増上寺から山内各寺院への境内地分与手続きが昭和三十一年までに完了しなかったため、翌年に再度『境内建物証明願』を作成したものと思われる。^
  18. 『大本山増上寺史』本文編(前掲)四〇六〜四三二頁を参照。^
  19. 『東京都都市計画概要一九六五』(東京都都市計画協議会、一九六六年三月)一四〇〜一四八頁を参照。^
  20. 実測値は、昭和三十八年首都高速道路公団第三建設部用地課測量班によって作成された酉蓮社の『潰地面積実測図』による。^
  21. この時の無償譲与について記した『(無償贈与)証明書』には、「宗教法人「酉蓮社」本堂庫裡平面図」(図版【34】)・「宗教法人「酉蓮社」本堂庫裡配置図」(図版【35】)が添付されている。^
  22. 『浄土宗新聞』第53号(昭和四十六年六月十日(木))「白雲去来」欄を参照。^
  23. 『浄土宗新聞』第93号(昭和四十九年十一月十日(日))に、大本堂落慶記念法要と法然上人開宗八百年記念慶讃法要の記念催事として、「増上寺と徳川展」(大本山増上寺・大本山増上寺奉賛会主催)と「記念切手展」(大本山増上寺・関東郵趣連盟主催)の開催が告知されている。^
  24. 普通の消印、増上寺と東京タワーの絵柄のある消印、「大殿落慶記念切手展」と題した増上寺の絵柄のある消印の三種である。^

あとがき 増上寺報恩蔵本を求めて

本書は、増上寺の旧山内寺院の一つ、酉蓮社の創建以来の歴史について考察したものである。執筆のきっかけは同社所蔵の嘉興蔵の存在であり、本書も当初は嘉興蔵の全蔵調査の報告書の劈頭を飾るべく執筆を進めてきた。本「あとがき」は全蔵調査報告書の跋文とすべく執筆したものであるため、本書の内容にそぐわない面があるかもしれないが、この場を借りて、私がこれまで行ってきた大蔵経の全蔵調査について述懐させていただきたい。

大蔵経の全蔵調査は、酉蓮社収蔵の嘉興蔵で四回目である。

最初は、二〇〇七年夏に調査した成田山仏教図書館所蔵の永楽北蔵である。同館が所蔵するのは、永楽北蔵の正蔵六千三百六十一帖・続蔵四百十帖のうち、わずか四百四帖にすぎないから、全蔵にはほど遠いものであったが、日本はおろか、中国でも伝存まれな大蔵経であり、非常に貴重な経験をさせていただいた。いまだ現存経典目録・調査報告を公刊できておらず、内心忸怩たるものがある。

二回目は、二〇〇八年二~三月・六~九月、二〇〇九年三~四月に調査した成田山新勝寺の一切経堂に収蔵される黄檗蔵である。冊数にして、全千九百二十九冊に及んだ。そのうち千八百七十冊は、享保年間(一七一六~一七三六)の一切経堂建立時に納経されたと推測される。その調査結果は、『成田山新勝寺一切経堂収蔵黄檗版大蔵経目録』(大本山成田山新勝寺、二〇一〇年一月)にまとめた。

三回目は、二〇〇九年十二月に調査した台湾の中央研究院歴史語言研究所傅斯年図書館所蔵の黄檗蔵である。全二千百一冊、及び『大明三蔵聖教目録』三部三冊からなり、一九六一年頃印造されたものである。二週間の台湾滞在中、調査に充てられたのは十日に満たなかったが、新勝寺の黄檗蔵の調査時に作成した詳細な書誌データを活用して、無事全蔵調査を終えることができた。中央研究院での調査結果を新勝寺本の調査報告に生かし、『成田山新勝寺一切経堂収蔵黄檗版大蔵経目録』の精度を高めることもでき、慌ただしくも非常に有意義な調査であった。その調査結果は、「中央研究院傅斯年図書館蔵黄檗版大蔵経目録」(『東洋文庫書報』41、二〇一〇年三月)にまとめた。

四回目が酉蓮社収蔵の嘉興蔵である。過去三回の大蔵経調査の経験とデータの蓄積を活用して調査に臨んだが、黄檗蔵にはない続蔵・又続蔵の調査に難儀した。嘉興蔵の正蔵は十行二十字の版式に代表されるように、スタイルが均一化されており、データが取りやすいのであるが、続蔵・又続蔵は種々雑多であり、経巻を開くたび書誌の取り方に思い悩み、時間ばかりが過ぎていった。調査開始から一年余でようやく『酉蓮社(旧三縁山増上寺山内寺院報恩蔵)収蔵嘉興版大蔵経目録』(酉蓮社、二〇一二年三月)を刊行することができ、さらに半年を費やして、本書の刊行にこぎ着けた次第である。

そもそも酉蓮社の嘉興蔵に関心を抱いたきっかけは、『昭和法宝総目録』第二巻に収録される『大明三蔵聖教北蔵目録』四巻が、明の永楽年間(一四〇三~一四二四)に北京で開版された北蔵の目録とみなされている点に疑問を持ったことに始まる。過去、北蔵の目録に言及する際には、この『昭和法宝総目録』本に依拠することが多かった。

北蔵の編纂時、永楽帝の勅命により南蔵の入蔵経典のうち四部の入蔵が取り消され、南蔵の目録である『大明三蔵聖教目録』三巻も入蔵されなかった。『昭和法宝総目録』本の巻末にはこれら五部の経典が「北蔵欠南蔵函号附」として附録されている。しかし『昭和法宝総目録』本が底本としたのが本当に北蔵の目録であったのであれば、勅命によって削除された経典のリストをわざわざ目録に載せるとは考えがたい。

そこで、『昭和法宝総目録』本は、北蔵の目録がベースになってはいるものの、北蔵本体と一具のものとして開版された目録を底本としたものではなく、嘉興蔵に入蔵された『大明三蔵聖教目録』か、もしくは、これを日本で覆刻した黄檗蔵の目録を底本として、その書名に「北蔵」を加えたものである、とかねてより推測していた。このことを証明するため着目したのが、『昭和法宝総目録』本の底本である「増上寺報恩蔵本」であった。

報恩蔵について増上寺出版課に問い合わせたところ、増上寺の旧山内寺院である酉蓮社のことではないかとの回答をいただいた。そこで酉蓮社に明版大蔵経が伝わっていないか確認するため、酉蓮社住職青木照憲師に書面で現在の状況を問い合わせたところ、親戚筋に当たる三田龍原寺に長らく預けていたが、いまは酉蓮社に戻っていると御教示いただいた上、こころよく経本の調査をお許しいただいた。

調査のきっかけとなった『大明三蔵聖教目録』については、結局その存在を確認できなかったが、酉蓮社所蔵の明版大蔵経はすべて嘉興蔵であった。よって酉蓮社、つまり増上寺報恩蔵所蔵の『大明三蔵聖教目録』が嘉興蔵本であったこと、ひいては『昭和法宝総目録』第二巻所収の北蔵の目録が、実は北蔵と一具のものではなく、嘉興蔵本であったことが証明されたといえる。

当初は本書に酉蓮社蔵本の調査報告、及び詳細目録を収録し、さらに酉蓮社蔵本と日本各所に所蔵される嘉興蔵の現存経典目録とを比較対照する等の方法により、嘉興蔵の特徴や出版経緯について考察する予定であったが、ひとえに筆者の力不足により間に合わなかった。この課題については後日に期したい。

本書の刊行にあたっては、今年三月の目録の刊行に続き、酉蓮社御住職青木照憲師の多大なる御支援御協力を賜った。御厚情に衷心より御礼申し上げたい。また二年余にわたる調査に当たっては、御住職をはじめ、御令室玲子様、甥細川聡洋氏にひとかたならぬ御支援を賜った。七月には青木照憲師のお取り計らいで、光円寺御住職佐藤良純師より近現代の酉蓮社・通元院に関する貴重なお話をお伺いすることができた。また各種資料の閲覧・複写・撮影等に当たっては、浄土宗大本山増上寺をはじめ、国文学研究資料館・国立国会図書館・港区立みなと図書館・鎌倉光明寺・妙定院等に御協力いただいた。ここに記して篤く御礼申し上げたい。

二〇一二年八月十五日

會谷 佳光

口絵

 

 


図版目次

図版

【1】文政2年「南四谷寮主列名」(東洋文庫蔵『三縁山志』巻11)

 

【2】延宝元年「増上寺図」第三図(東洋文庫蔵『三縁山志』巻1)

 

【3】貞享3年「増上寺図」第四図(東洋文庫蔵『三縁山志』巻1)

 

【4】文政2年「増上寺図」第六図(東洋文庫蔵『三縁山志』巻1)

 

【5】宝暦2年雅山自筆『檀謝仰渡覚』(上)と「猶龍」印(下)(増上寺蔵)

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【6】「猶龍窟」印(酉蓮社蔵本)

 

【7】文政2年・天保13年の南四谷・酉蓮社 *上段が文政2年当時の学寮主、下段が天保13年当時の学寮主

 

【8】元治元年『一山総構赤羽川端通絵図』の酉蓮社(増上寺蔵)

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【9】作成年代未詳『縁山山内図』の報恩蔵(増上寺蔵)

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【10】明治2年1月『諸宗作事図帳』の酉蓮社作事図(国立国会図書館蔵)

 

【11】明治2年1月当時の南四谷

 

【12】明治4・5年頃『増上寺地中明細総絵図』の南四谷・酉蓮社(増上寺蔵)

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【13】明治2年1月当時の北谷

透過画像

 

【14】明治6年頃『増上寺絵図』の酉蓮社付近(上)・北谷(下)(国立国会図書館蔵)

 

【15】明治10年12月『浄土宗寺院明細簿』の酉蓮社境内図(増上寺蔵)

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【16】明治10年12月『一山建屋坪数調絵図』の酉蓮社・新谷(増上寺蔵)

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【17】明治17年『五千分一東京図測量原図』「東京府武蔵国芝区芝公園地近傍」

 

【18】明治20年『東京実測図』の旧新谷付近(『東京都港区近代沿革図集新橋・芝公園・芝大門・浜松町・海岸』所収)

 

【19】明治31年『敷地使用換願』の酉蓮社敷地図(増上寺蔵)

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【20】明治33年『寺籍一覧表』の酉蓮社作事図(酉蓮社蔵)

 

【21】明治33年『寺籍一覧表』の通元院作事図(酉蓮社蔵)

 

【22】「増上寺/報恩蔵」印(酉蓮社蔵本)

 

【23】「東京増上寺報恩蔵内部」(実は増上寺の経蔵)

 

【24】「酉蓮社経堂」(『雲介子関通上人全集』第5巻所収)

 

【25】昭和17年当時の酉蓮社(報恩蔵)(酉蓮社蔵)

 

【26】昭和17年『意見書下付申請』「酉蓮社実測平面図」(酉蓮社蔵)

 

【27】昭和17年『意見書下付申請』「酉蓮社位置及実測」図(酉蓮社蔵)

 

【28】昭和27年『酉蓮社復興計画書』「酉蓮社境内図」(酉蓮社蔵)

 

【29】昭和29年『港区芝公園地拾四号地四八番ノ一外五筆実測図』(酉蓮社蔵)

 

【30】昭和31年『境内建物証明願』「宗教法人「酉蓮社」配置図及び案内図」(酉蓮社蔵)

 

【31】昭和32年『家屋所有権保存登記申請書』「宗教法人浄土宗「酉蓮社」境内建物平面図」(酉蓮社蔵)

 

【32】昭和38年2月『承認書』「宗教法人酉蓮社見取図」(酉蓮社蔵)

 

【33】昭和38年6月『宗教法人酉蓮社総代同意書』「酉蓮社境内地見取図」(酉蓮社蔵)

 

【34】昭和38年6月『(無償譲与)証明書』「宗教法人「酉蓮社」本堂庫裡平面図」(酉蓮社蔵)

 

【35】昭和38年6月『(無償譲与)証明書』「宗教法人「酉蓮社」本堂庫裡配置図」(酉蓮社蔵)

 


酉蓮社関連年表

年代月日記事内容
1735享保2011.雅山、「刻釈観無量寿経記序」を撰す。
1749寛延210.11雅山、所化方月行事席に就任す。
10.嘉興蔵、増上寺に奉納される。
1750寛延35.21報恩蔵、上棟す。
9.16酉蓮社の寺額、完成す。
9.27報恩蔵の落慶法要、執り行われる。
10.20了誉聖冏像、報恩蔵に奉納される。
1752宝暦2正.この頃までに、雅山、学頭に就任す。
10.25雅山、大巌寺住職に就任す。
1757宝暦75.18雅山、遷化す。
1759宝暦912.23蔵主恵城、『報恩蔵祠堂金利潤請取帳』の記録開始。
1766明和34この頃、報恩蔵、修復される。
1771明和88.この頃、報恩蔵、増築される。
1772明和911.この頃までに、酉蓮社の堂舎が完成し、浄業修練道場の別院に改格され、増上寺第四十八世典誉智瑛を酉蓮社開山(開基)とする。『酉蓮社報恩蔵如法道場規約』を下付される。
1783天明37.18酉蓮社初代住職練城(旧名恵城)、遷化す。
1785天明53.19酉蓮社住職練山(祐応と同一人物か)、隠居し、運理が住職に就任す。
8.20酉蓮社、恵照院・妙定院・心光院・清光寺・福聚院とともに独礼格寺院を拝命す。
9.3『酉蓮社添規約』を下付される。
1789寛政元4.6新谷の所化僧在源に酉蓮社の空き地を譲渡す。
1806文化33.4牛町より出た火災により、酉蓮社焼失す。
1809文化611.21酉蓮社住職運理、遷化す。
1819文政2 摂門、『三縁山志』を刊行す。
1821文政4 摂門、『檀林巡璐記』を刊行す。
1869明治2正.酉蓮社の境内地965坪、冏師堂5間四方塗家造、庫裡梁間7間・桁行10間半。
6.版籍奉還。
1871明治4 明治5年10月頃までに、酉蓮社の境内地411坪、東半分496.56坪は水車用地となる。
正.5太政官布告「社寺領現在ノ境内ヲ除クノ外上地被仰出土地ハ府藩県ニ管轄セシムルノ件」、公布される。
1872明治52.銀座大火発生。以後、袋谷・中谷・天神谷・北谷が海軍省の属舎等として接収され、酉蓮社庫裡にも北谷の修学僧が移り住む。
1873明治63.25太政官布告「公園設置ニ付地所選択ノ件」を受け、東京府は五公園の一つとして三縁山増上寺を芝公園とすることを決定する。
7.地租改正。
11.5冏師堂25坪。酉蓮社無住につき、元北谷の修学僧徳存が代理となる。徳存寮(酉蓮社境内地)敷地1007.56坪。
1875明治86.29太政官布告「社寺境内外区画取調規則」、公布される。
1877明治1012.酉蓮社の境内地131坪、瓦葺宝形造堂(報恩蔵)3間半四方12.25坪。酉蓮社看主学寮主河野密円。酉蓮社庫裡、密円寮と記される。
1884明治1612.11酉蓮社東隣の旧境内地に34号寮舎が建設され、片門通へ渡るための仮橋の建築申請が行われる。
1887明治208.1東京府が通元院の建物・庭園を買収。以後、通元院は瘡守稲荷社とともに酉蓮社東隣の旧境内地に移転す。
1898明治312.酉蓮社の境内地131坪。学寮(旧酉蓮社庫裡)敷地425.77坪を止観室学寮主秦誠音より寄付される。
1900明治33 酉蓮社の境内地131坪、旧学寮敷地419.39坪、経蔵兼仏殿(報恩蔵)瓦葺木造土蔵造3間半四方12.25坪、庫裡木造瓦葺97.13坪。酉蓮社住職不染信翁。
1913大正2 酉蓮社住職不染信翁、遷化す。
1921大正109.5樋口便孝の遷化により、野口広信、酉蓮社住職に就任す。
1922大正113.31酉蓮社の境内地556.77坪。
6.13酉蓮社住職野口広信、通元院住職蓮池徳音に寺務一切の代理を委任し、家屋管理人とす。
6.14酉蓮社家屋、木造2階建1棟、建坪113.54坪、2階5坪。
1923大正129.1関東大震災発生。
正.『大正新脩大蔵経』の編纂が始まり、酉蓮社の嘉興蔵が底本・校本に採用される。
12.酉蓮社住職野口広信、常光寺に転住となり、佐藤良智が酉蓮社住職に就任す。通元院住職野口祐真を酉蓮社の家屋管理人とす。
1927昭和2 この頃までに、酉蓮社を南北に分断する震災復興道路が建設され、報恩蔵が建て替えられる。
1938昭和13 この頃までに、酉蓮社住職佐藤良智が光円寺に転住となり、石川龍音が酉蓮社住職に就任す。
1939昭和144.『宗教団体法』、発布される(翌年4月1日施行)。
12.8太平洋戦争開戦。
1941昭和163.28『浄土宗宗制』、施行される。
1942昭和173.13東京府知事に『寺院規則認可申請書』を提出するため、浄土宗管長に『意見書下付申請』を提出す。酉蓮社の境内地64.12坪、経堂鉄筋コンクリート造瓦葺平屋建宝形造22尺四方15.83坪。この他、「本寺院ノ目的外ニ使用セル敷地」として、震災復興道路の北側に212.29坪、南側に195.48坪あり。
1945昭和203.9・10東京大空襲。
5.24・25東京大空襲。
12.28GHQの命令により『宗教団体法』が廃止され、『宗教法人令』が施行される。
1951昭和264.3『宗教法人法』、施行される。
1951昭和2612.12増上寺仮本堂、上棟す。
1952昭和271.19酉蓮社管首山田海学、『酉蓮社復興計画書』を作成し、増上寺執事長の承認を得。敷地257.26坪、木造瓦葺平屋建1棟27坪。本堂32畳、書院8畳。
10.31酉蓮社住職山田海学、東京都知事より宗教法人の認証を受ける。
1952昭和2712.24増上寺、大蔵省関東財務局より境内地39,223.35坪を無償譲与される。うち酉蓮社分は395.54坪中107.58坪のみ増上寺に譲渡された。
1954昭和295.30酉蓮社周辺の大蔵省所有地の測量が行われる。
1955昭和301.18山田海学、酉蓮社兼務住職を辞任し、3月15日、前田成慧が酉蓮社住職に就任す。
3.10酉蓮社住職前田成慧、本堂・庫裡の新築に際し、建築予定地が増上寺に無償譲与された土地であることの証明を求める。本堂・庫裡木造瓦葺平屋建1棟19.84坪、本堂6畳、仏間3畳、玄関3畳、居間6畳、書斎8畳。
1957昭和327.増上寺、西武鉄道株式会社との間の土地問題の解決により、各寺院に境内地の分与を開始す。
11.25増上寺より酉蓮社境内地107.58坪が贈与される。
1958昭和339.16東京都港区芝公園14号17番の地番を51番に変更す。
1963昭和382.25都市高速道路2号線用地として、境内地の南半分41.89坪(実測39.49坪)を首都高速道路公団に売却す。
6.20都市高速道路2号線用地として、残りの境内地68.9坪(実測47.94坪)を首都高速道路公団に売却し、東京都目黒区平町51番地(109.75坪)に移転す。
6.26酉蓮社の本堂・庫裡が解体され、玉蓮院に無償譲与される。
1974昭和4911.増上寺新大殿完成記念「増上寺と徳川展」・「記念切手展」に酉蓮社蔵本が出品される。
1976昭和513.3酉蓮社住職前田成慧の遷化により、前田孝雄が酉蓮社住職に就任す。この頃、通元院の建て替えがあり、嘉興蔵が竜原寺に預けられる。
1983昭和587.6前田孝雄、酉蓮社住職を辞任し、青木照憲が酉蓮社住職に就任す。
1988昭和632.25木造アルミニウム板葺2階建の居宅を解体す。
1989平成元3.30鉄筋コンクリート造ルーフィング葺3階建の本堂・庫裡を新築す。
2008平成1810.2竜原寺に預けられていた嘉興蔵が酉蓮社に戻る。
2010平成224.新たに建設された収蔵庫に嘉興蔵を納める。

 


近現代の酉蓮社歴代住職

年代月日住職備考
1873明治611.徳存酉蓮社無住のため代理。
1877明治1012.河野密円看主・学寮主。就任年不明。
1889明治22 遷化。
1898明治312.不染信翁酉蓮社管理。就任年不明。
1900明治33 酉蓮社住職。
1913大正2 遷化。
 藤井慈道酉蓮社住職。就任・退任年不明。
1921大正109.樋口便孝酉蓮社住職。この頃、遷化。
1921大正109.5野口広信酉蓮社住職就任。
1923大正1212.酉蓮社住職退任。
1923大正1212.佐藤良智酉蓮社住職就任。
1930昭和5 酉蓮社住職。退任年不明。
1938昭和13 石川龍音酉蓮社住職。就任年不明。
1942昭和17 酉蓮社住職。退任年不明。
1952昭和271.山田海学酉蓮社管首。就任年不明。
1955昭和301.酉蓮社兼務住職退任。
1955昭和301.前田成慧酉蓮社住職就任。
1976昭和513.酉蓮社住職退任。
1976昭和513.前田孝雄酉蓮社住職就任。
1983昭和587.酉蓮社兼務住職退任。
1983昭和587.青木照憲酉蓮社住職就任。現在に至る。

 


和暦・西暦一覧

和暦西暦改元年月日等
慶長8~201603~1615 
元和1~101615~16241615年7月13日改元
寛永1~211624~16441624年2月30日改元
正保1~51644~16481644年12月16日改元
慶安1~51648~16521648年2月15日改元
承応1~41652~16551652年9月18日改元
明暦1~41655~16581655年4月13日改元
万治1~41658~16611658年7月23日改元
寛文1~131661~16731661年4月25日改元
延宝1~91673~16811673年9月21日改元
天和1~41681~16841681年9月29日改元
貞享1~51684~16881684年2月21日改元
元禄1~171688~17041688年9月30日改元
宝永1~81704~17111704年3月13日改元
正徳1~61711~17161711年4月25日改元
享保1~211716~17361716年6月22日改元
元文1~61736~17411736年4月28日改元
寛保1~41741~17441741年2月27日改元
延享1~51744~17481744年2月21日改元
寛延1~41748~17511748年7月12日改元
宝暦1~141751~17641751年10月27日改元
明和1~91764~17721764年6月2日改元
安永1~101772~17811772年11月16日改元
天明1~91781~17891781年4月2日改元
寛政1~131789~18011789年1月25日改元
享和1~41801~18041801年2月5日改元
文化1~151804~18181804年2月11日改元
文政1~131818~18301818年4月22日改元
天保1~151830~18441830年12月10日改元
弘化1~51844~18481844年12月2日改元
嘉永1~71848~18541848年2月28日改元
安政1~71854~18601854年11月27日改元
万延1~21860~18611860年3月18日改元
文久1~41861~18641861年2月19日改元
元治1~21864~18651864年2月30日改元
慶応1~41865~18681865年4月7日改元
明治1~451868~19121868年9月8日改元。1872年12月3日、太陽暦採用により明治6年1月1日とする。
大正1~151912~19261912年7月30日改元
昭和1~641926~19891926年12月25日改元
平成1~241989~20121989年1月8日改元

※『東方年表』(平楽寺書店、2004年1月第35刷)による。


書名

旧三縁山増上寺山内寺院・報恩蔵酉蓮社志稿

発行日

平成二十四年九月二十七日 聖冏忌 発刊

著者

會谷 佳光

発行者

青木 照憲

発行所

酉蓮社

〒一五二 〇〇三二 東京都目黒区平町一丁目四番十六号

電話:〇三(三七一七)五六六八

FAX:〇三(三七一七)五六八四

印刷所

印刷所 株式会社共立社印刷所

※この奥付は、2012年に紙媒体で刊行された時のものです。